震災前取材

岩手県陸前高田市高田町字本丸

 

別名:東館城

駅通りの突き当たりの背後の丘陵が高田城跡である。現在は本丸公園として市民に親しまれている。
高田城は、天照御祖(アマテラスミオヤ)神社の西側が中心部で、東西に数段の平坦地、北に空堀が残る。北の八幡神社が建つ場所は最高所で、八幡館と呼ばれている。高田城は当初はこの部分から徐々に拡大したものと思われる。八幡館の後に空堀が残る。

高田城は葛西氏一門の千葉氏の居城跡で、鎌倉末期の正和4年(1315)、本吉郡馬籠から千葉広胤が鶴崎城へ移り、さらに二代後の重慶の時高田城へ移った。重慶は息子三人を浜田、高田、長部に分立させた。しかし嫡男で浜田領主の浜田胤慶は、弟で気仙郡長部領主の長部慶宗とは仲が悪く、応永20(1403)年、長部慶宗の軍勢に居城の高田城を攻められ自刃して果てた。しかし、胤慶の子で城を落ちのびていた胤長と宗胤は、長部城を攻めて長部慶宗を討ち取り、父の仇をとった。

その後、浜田氏が一族を掌握し、また太守葛西氏の弟の西館氏の子を嗣子として迎え本吉郡に権勢をふるった。その後は太守葛西氏とことを構え、永禄3年(1560)には、浜田広綱が葛西氏に背命して騒擾し、熊谷直賢らと交戦した。このころ、高田城から米ケ崎城へと拠点を移し、軍拡を進め、浜田氏の軍事力は最大となる。

天正15年(1587)、本吉重継と不和となり、本吉郡に侵攻、葛西太守の仲裁で撤兵する。しかし、翌16年の春には再び挙兵し本吉郡への侵攻を開始し、浜田勢は防衛の主力である気仙沼熊谷党と篠峯山麓で激戦を繰り広げた。しかし、熊谷党の奮戦はすさまじく、浜田勢は劣勢に立たされ、徐々に本吉郡から後退、8月に広綱は降伏した。この一連の合戦を「浜田広綱の乱」と呼ぶ。

まもなく天正18年(1590)小田原不参陣で葛西氏は滅亡、広綱の子の重俊と信綱は葛西一揆に荷担し深谷で誅殺され、浜田氏は没落した。