震災前取材

岩手県陸前高田市気仙町字中井

 

千葉周作(ちばしゅうさく)は通称は周作、諱は成政、幼名は於兎松。幕末の剣豪として名高く、北辰一刀流の開祖。

その道場である玄武館は幕末三大道場のひとつで、門下からは、浪士組幹部の清河八郎、山岡鉄舟、新撰組幹部の山南敬助などを、弟の定吉門下からは坂本龍馬を輩出している。

周作の父の千葉玄養は、事情により追われ、気仙といわれたこの地に逃れてきた。この地での天満宮の別家で、神社の鳥居脇にて簡単な医療施設を開設していた町医者の世話になり、寛政5年(1793)、周作はそこで働いていた女性との間に生まれた。父玄養にとってはこの地も安住の地ではなかったようで、周作が5歳の頃、周作だけを連れて宮城県の栗原郡へ移った。

曽祖父の道胤は相馬中村藩の剣術指南役であったが、御前試合で敗れたために役を辞して栗原郡へ移っていた。祖父の成胤は、いったんは指南役に推挙されたが、辞して馬医者になり、千葉県松戸に移り、獣医師を開業した。

周作は成長してから親元を離れ一時松戸へ移ったようだが、中西派一刀流の流れを汲む浅利義信に入門し、浅利義信の師匠の中西子正などからも指南を受けて腕を磨いた。一時は浅利義信の婿となって後を継ぐことを期待されたが、周作は独立し北辰一刀流を創始した。

その後、武蔵、上野などを周って他流試合を行い名を挙げ、門弟数も増えたために江戸に帰り、文政5年(1822)、日本橋品川に玄武館と言う道場を開設した。後に神田お玉ヶ池に移転し、江戸に剣術の一流を興した。この北辰一刀流は精神論に偏らず合理的な剣術であったため人気を得た。北辰一刀流の教え方は、主に竹刀を使用し 、段階を3段階と簡素化したことが特徴。門弟数が一説には6千人以上にも及んだと伝えられる。

北辰一刀流剣術の人気は絶大なものとなり、「力の斎藤」、「位の桃井」とならんで、「技の千葉」と称された。天保3年(1835)、周作の盛名を聞きつけた水戸藩前藩主の徳川斉昭の招きを受けて、剣術師範とされ、馬廻役として100石の扶持を受けた。弟の定吉も京橋桶町に道場を持ち桶町千葉と称された。

安政2年(1856)12月、63歳で没した。

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