岩手県宮古市日立浜町

震災前取材

浄土ヶ浜は、陸中海岸国立公園の中心をなす宮古の代表的な景勝地。

浄土ヶ浜の地名は、天和年間(1681~1684)、常安寺七世の霊鏡竜湖和尚が、「さながら極楽浄土のごとし」と感嘆したことから名付けられたと言われている(異説あり)。

約5200万年前の古第三紀に形成された火山岩からなる白い岩塊と、同色の小石によって外海と隔てられた波穏やかで清明な入り江が形成されており、また岩上には、ナンブアカマツをはじめとする常緑樹の群生が見られ、あたかも日本庭園のような美しい景観が醸し出されている。

また、入り江を形成する岩塊の外海側は、太平洋の荒波の浸食を受け、荒々しい景観が見られ、これらは、「剣の山」「賽の河原」「血の池」等、青森の恐山の地名呼称と共通する名称で呼ばれており、宗教的な側面も持っているように思われる。

この浄土ヶ浜の沖で、明治2年(1869)5月、海上戦闘が行われた。箱館に篭っていた旧幕府軍が、宮古湾に停泊していた新政府軍の主力艦である「甲鉄」を奪取する作戦を決行した、旧幕府軍艦隊はトラブル続きの中、回天と高尾が宮古湾に突入したが、結局回天は新政府軍の艦隊に包囲され砲撃を浴び失敗に終わった。