岩手県盛岡市北山二丁目…東禅寺

2012/05/16取材

南部利直は、南部氏第27代当主で、盛岡南部藩の初代藩主である。

天正4年(1576)、第26代当主南部信直の長男として、三戸の田子城で生まれたと伝えられる。利直の利は前田利家からの偏諱だとされる。

天正19年(1591)、南部氏は九戸の乱にてこずっていた。南部信直は利直と重鎮の北信愛を上方に派遣し、天下の総無事令に違背するものとして訴え、中央軍を引きこむことに成功し、乱の鎮圧に成功した。

慶長4年(1599)、信直が死去した後家督を継いで南部家の第27代当主となった。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいては東軍側に着き、利直は最上義光の後援として山形に出陣した。しかし、和賀忠親が伊達政宗の助力を得て和賀郡や稗貫郡で一揆を起こしたため、山形から急遽引き返し和賀勢を撃退し、翌慶長6年(1601)までに完全に鎮圧した。

以降は盛岡藩政の整備に着手し、白根金山や西道金山をはじめとする鉱山開発から財政を安定させた。元和元年(1615)には盛岡城を築城して城下町を形成し、三戸城下の市民も盛岡に移した。

九戸の乱の影響からか、盛岡南部藩の基礎を築くに当たっては独裁集権化を進め、国人領主から家臣になった血縁関係のない家臣の多くは些細な理由で処罰、追放し、又歴史的な経緯から、三戸南部とは対等な関係だった八戸南部を強引に遠野に移し、三戸南部への集権を強化した。

また、正室との間に生まれた三男の重直を嫡子としたが、側室との間に生まれた長男の家直は16歳で病死、次男の政直はその重臣柏山明助とともに毒殺された。

慶長19年(1614)には大坂冬の陣に参陣し、江戸幕府との関係強化に務めた。寛永9年(1632)8月、江戸桜田屋敷で死去した。享年57。