岩手県遠野市綾織町上綾織1地割

2014/05/09取材

 

千葉家住宅は、石垣の上に茅葺の建物がそびえ建つ、小城のような荘厳な屋敷構えで、天保年間(1830-1844)に当時の千葉家当主である四代喜右衛門が、飢饉で困窮した人々の救済のため、約10 年の歳月をかけて普請したと伝わる茅葺屋根の南部曲家である。その後代々千葉家が修繕しながら守り続け、昭和49年(1974)から「南部曲家千葉家」として公開し、遠野観光の中心的役割を担ってきた。平成19年(2007)に、主屋と附属建物及び宅地が国重要文化財に指定され、平成25年(2013)に遠野市が譲渡を受け、観光施設としての活用を継続している。

馬屋を前面に張り出して母屋と厩がL字状につながる、この地方独特の、いわゆる南部の曲屋形式の民家で、主屋の座敷には面皮材の棹縁を使用するなど、瀟洒な意匠を見せている。馬屋と住居空間をつなぐ土間は、大きなカマドがあって餌を煮たり、飼い葉置き場や農作業などを行う多目的な作業空間になっていた。馬屋の屋根には破風があり、常居の炉や土間のカマドで焚く火の気は馬屋の屋根裏を通って排出され、馬屋を暖めるようになっていた。また主屋の周囲には、江戸末期から大正期にかけて建設された附属建物が残り、その特異な敷地構成とともに豪農の屋敷構えをよく保っている。かつては25名の人と20頭の馬がこの一軒の家で生活していたとされる。

千葉家は、源頼朝奥州征伐に従軍した関東の御家人千葉氏の流れと伝えられ、室町時代末には、葛西氏の家臣である大原氏に仕えていたと伝えられている。豊臣秀吉の奥州仕置きにより葛西氏が滅亡し、この遠野の地に逃れ帰農したと考えられる。当初は長洞山の麓に居したことから「長洞」次いで「山谷川」と変えた。

江戸時代には代々肝煎りを務め、第五代喜右衛門の代に、遠野の領主の遠野南部氏から20石を給され士分に取り立てられ、姓を「千葉」に復し、屋号を「山喜」とした。

代々、山林業、炭焼業を生業として財を成し、農地解放以前は、屋敷の庭から臨める田畑の殆どが千葉家の土地で、鉄道が敷設されてからも、岩手二日町駅から自宅まで、自分の土地だけを通って行き来できたという。

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