岩手県遠野市松崎町白岩

2014/05/09取材

 

八幡宮はこの地を領した阿曽沼広綱が、宇夫方広房を代官として送り、松崎村駒木に「館」を築き、氏神の八幡神を祀ったのが始まりと考えられている。

阿曽沼広綱は、文治5年(1189)、源頼朝の平泉藤原氏追討に従軍し功があり、頼朝から遠野郷を賜った。その後阿曽沼氏は、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣せず、阿曽沼氏は領地没収となるところを、南部氏の配下となることで辛うじて領地を全うすることができた。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際に、阿曽沼広長は南部利直に従い最上に出兵していたが、南部氏は阿曽沼氏の忠誠を疑い、遠野城を阿曽沼氏の一族の鱒沢氏に襲わせ阿曽沼氏を排除した。

阿曽沼氏衰退後、遠野は南部領となったが治安は定まらなかった。寛永4年(1627)、南部直栄が八戸から転封した。八幡宮は古来より源氏の氏神であったことから南部氏も篤く崇敬し、社領10石を寄進するなど庇護した。更に直栄は寛文元年(1661)、八幡宮を宮代より現在地に遷宮し流鏑馬用の馬場を造営し、祭典を盛大に行った。

大正2年(1913)本殿と幣殿を改築、昭和25年に八幡神社を遠野郷八幡宮と改称し現在に至る。

この神社には、「神楽組ゴンゲサマ」神楽舞が伝えられる。「ゴンゲサマ」とは「権現様」の意とされ、獅子頭に似た木彫の像で、大変にご利益があるものととされる。

この八幡社の神楽組のゴンゲサマと、土淵村字五日市の神楽組のゴンゲサマとが、かつて争いをおこしたことがあり、この地のゴンゲサマは負けて片耳を失ったと云い、今も片耳がない。

このゴンゲサマの霊験は特に火伏にあるとされ、かつて附馬牛村に行き日が暮れ、宿を取り兼ねていたとき、ある貧しい者の家が快くこれを泊めてくれ、五升枡を伏せてその上にゴンゲサマを座え置いた。人々は床に就き寝静まった頃、夜中にがつがつと物を噛む音がして、家人が驚いて起きてみると、軒端に火が燃えついているのを、桝の上にあったゴンゲサマが、飛び上り飛び上り、火を喰い消していて、大事にはいたらなかったという。