岩手県遠野市土淵町十八地割

2014/05/09取材

 

倭文(ひとり)神社は、中世の阿曽沼氏の時代の五日市館主橘家の守護として、 文殊菩薩を勧請したのが始まりとされる。

この地の阿曽沼氏は、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣せず、阿曽沼氏は領地没収となるところを、南部氏の配下となることで辛うじて領地を全うすることができた。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際に、阿曽沼広長は南部利直に従い最上に出兵していたが、南部氏は阿曽沼氏の忠誠を疑い、遠野城を阿曽沼氏の一族の鱒沢氏に襲わせ阿曽沼氏を排除した。

橘氏はこのとき阿曽沼氏方として戦ったが敗れ、士分を捨てて修験道に帰依し、それ以来修験道並 びに諸士の修業道場となり、明治維新迄、各地より入峯参籠断食祈祷するものも多かった。「お文珠様」と呼ばれ、例祭には学童たちが習字を奉納して筆写の上達を祈った。明治維新後、神仏分離令により倭文神社と改め、全村の諸社ここに合祀して 今日に至る。

この神社には、「神楽組ゴンゲサマ」神楽舞が伝えられる。「ゴンゲサマ」とは「権現様」の意とされ、獅子頭に似た木彫の像で、大変にご利益があるものととされる。この「ゴンゲサマ」、新張の八幡社の神楽組のゴンゲサマと、かつて争ひ勝ち、その時の争いで新張のゴンゲサマは片耳を失ったと云う。