岩手県花巻市石鳥谷町中寺林第12地割

2012/05/16取材

 

光林寺の創立は、蒙古軍が襲来した文永の役の6年後に当たる弘安3年(1280)と伝えられる。 開基は、奥州稗貫郡の領主で寺林城主だった河野太郎通重の嫡子河野通次とされる。

河野太郎通重は、伊予の河野太郎通信の長男通俊の二男にあたる。河野通次は、弘安2年(1279)、京都在番の折り、河野一族でもある時宗開祖の一遍上人の辻説法を聞き帰依し弟子になったと伝えられる。通次は一遍とともに、信濃の善光寺において阿弥陀如来の慈悲を感得した。

河野通次の祖父の通信は、源頼朝の妻政子の妹を妻とし、平家追討に大功を立てた知将として知られ、奥州遠征にも従い稗貫郡に領地を得た。しかし、承久の乱では後鳥羽上皇の側につき敗れた。この承久の乱では、河野一族は二分し、鎌倉幕府側についた一族が命脈を保ち、通信は奥州の江刺に流された。

弘安3年(1280)、江刺郷へとやってきた通次は、祖父通信の古墳墓を訪ね転経念仏をし、稗貫寺林の父の通重の許をたずねた。通重もまた一遍の教えに感銘し、息子と同じように帰依し、寺領として二千町歩もの広大な土地を寄進し、光林寺を建立した。

弘安4年(1281)、一遍導師のもと、信者多数が見守るなか落慶法要が盛大に執り行われた。このとき、西の林よりまぶしい光が現れ、天地を輝かせた。驚く信者たちに一遍は、「この光は道場の衆生の念仏信心深ければ、仏陀の来迎に預かるお救いの瑞相なり」と話し、これにより寺名を「光林寺」としたと伝えられている。

応永9年(1402)、室町将軍足利義政と関東公方足利持氏とが不和になり、これが奥州にも波及しこの地にも争乱が及んだ。このとき光林寺は兵火にかかり焼失した。その後、復興したが、天正19年(1591)の九戸政実の乱の際に、この地には豊臣方の武将の浅野長吉の手勢が陣を張った。この時の浅野氏の家臣の粗暴により寺堂は焼き払われてしまったが、浅野長吉に訴え、寺領として田畑各一町歩と居屋敷の寄付の証文を得た。

 

その後、藩政期になり、光林寺は、盛岡南部藩の庇護のもと、稗貫郡の精神的な柱とし、現在に至る。