岩手県花巻市石鳥谷町中寺林第12地割

2012/05/16取材

 

天授年間(1375~81)の頃、南朝の天皇の長慶天皇が、同じ南朝方で津軽の浪岡にいた北畠顕家の弟の顕能を頼って下向した際に、この地の光林寺に立ち寄った。

この時長慶天皇は、美しい垂松の根元の石に腰を掛け、前にあるその松に手を触れ愛でたと伝えられる。天皇はこの時に歌を一首詠み、それは光林寺に伝えられていたが、後の九戸政実の争乱で光林寺が火災にあい焼失した。

長慶天皇の伝説は、東北地方の各所に広く伝えられ、南朝最後の地ともいえる津軽に向かい収束している。長慶天皇は、南朝の第三代天皇にあたる。長慶天皇が即位した時期には、南朝は北畠親房らの重鎮を失い弱体化が著しく、北朝との和睦交渉が何度となく持ち上がっていた。長慶天皇は北朝に対しては強硬派であり、南朝勢力の立て直しのために奔走したと思われ、特に南朝方の拠点となっていた奥州の南部氏や北畠氏には熱心に働きかけたものと考えられる。

しかし、すでに南朝方の勢力回復は望むべくもなく、和平派の楠木正儀が北朝へ降り、また北朝方から攻撃されるなどで、吉野や河内など各所を転々とし、ついに弘和3年頃(1383頃)弟の後亀山天皇に譲位した。

譲位後も北朝方に対しては抵抗していたようで、元中9年(1392=明徳3年)に南北朝合一が成った際にも、後亀山天皇に同行して京都に入ることはなかったようだ。応永元年(1394)8月に、享年52歳で崩御したとされるが、その晩年の地についても諸説あり、津軽には、妃や皇子の墓とともに長慶天皇の墓と伝えられるものもあり、その他にも様々な伝説が伝えられている。