岩手県盛岡市名須川町

震災前取材

報恩寺は盛岡五山の内の一つ。

その始めは、応永元年(1394)、南部氏十三代南部守行によって南部氏の本拠だった青森県三戸に創建された。守行は38歳の時に病を得て、剃髪し、入道禅高と名乗っていた。守行は父 祖の菩提を弔い、自身及び一族主従の参禅道場として開基したもの。

しかし、その宗教的な生活のためか、守行は病を克服したようで、80歳の頃に、気仙郡の岳波太郎と阿曽沼秀氏の戦いで、阿曽沼氏に援軍を請われ、高齢にもかかわらず自ら兵を率い三戸から遠野、大槌まで進軍し陣没したと云う。

守行没後、報恩寺は次第に衰退し、一時廃寺になったが、二十四代晴政の頃再興され、永禄12年(1569)、南部家より2百石の知行を得た。慶長6年(1601)、二十七代利直の時に、南部氏は盛岡に移り、報恩寺も盛岡城の築城、及び城下町の形成に伴い、三戸から盛岡の現在地に移り、南部領内208ヶ寺の総領寺となった。

報恩寺本堂は嘉永4年(1851)に改築したもので、本尊は大和中善寺の本尊を譲り受けたもので、聖徳太子が彫ったものと伝えられる。また、境内の五百羅漢は有名で、羅漢堂は享保20年(1735)に建てられた。山門は昭和53年(1978)に建てられた三間一戸の楼門で、中門は盛岡城の城門だったと伝えられる。戊辰戦争の際には、南部藩の首席家老の楢山佐渡が、その責を負い、この地で斬首されている。