岩手県盛岡市仙北一丁目

震災前取材

現在の明治橋の下流にはかつて舟橋がかけられていた。仙北町と川原町を結ぶこの地は、盛岡城下の奥州街道筋の入り口にあたる。

以前は舟渡しだったが、しだいに諸国の人々の往来や物資の流通が激しくなり、寛文5年(1665)、金540両あまりを投じて土橋を架け、利用者からは橋銭を徴収し、盛岡以南の村々からは管理税を徴収して維持経営にあたった。しかしこの土橋はたびたび大洪水で流失したことから舟橋が架けられることになった。

天和2年(1682)に、大船18艘、中船2艘を、九戸産の鉄で作った鎖で両岸の大黒柱各4本につなぎ、 舟の上に長さ2間半から3間の板294枚を敷いて、人馬が自由に往来できるようにした。この舟橋も再三流失したが、幾度も改修工事が繰り返され、長さ110間(約200m)、舟を48艘並べ(時代により異なる)、全国的にも有名な南部舟橋ができた。増水時には敷板をはずし、舟を両岸に引き揚げて、「川止め」にした。現在も、中島辺りに当時の大黒柱の残根と思われる柱が水位低下時に5ヶ所見られる。

明治7年(1874)、舟橋の上流に明治橋が出来るまで舟橋は存続した。現在の明治橋は、昭和7年(1932)、永久橋として架設されたもの。