岩手県西和賀町沢内字太田…浄円寺境内

2011/08/01取材

この地の地蔵は、「沢内甚句」でも歌われている「およね」を偲んで建てられたものと伝えられる。

沢内三千石お米の出どこ
枡ではからないで箕ではかる

この「沢内甚句」の出だしの歌詞の、お米は「およね」、箕は「身」であると解釈されており、この歌には凶作に関わる村の娘「およね」の悲哀の物語が語り継がれていると云う。、

南部藩は、寒冷地であることもあり米の収穫は少なかったが、この和賀沢内村地方は、南部藩内では有力な米どころだった。沢内三千石と呼ばれ、南部藩の隠し田であったとも言われている。

ところが天保の大飢饉のときの凶作では、この沢内でも収穫は殆どなく、生活は窮乏を極め、大根葉を干したものや、ワラビなどで命をつないだ者はまだ良い方で、わらを食べ、雪解けを待って草の根を掘って食べるという悲惨なものだった。

このため、年貢米を納めることは出来なかったが、それにもかかわらず、藩からは上納の厳しいお達しがたびたびあり、この沢内通りの名主たちは、毎日集まり相談し、納米の減額や免除を嘆願した。

そのような時、集まりにこの地方の代官が来て、他藩では年貢の代わりに娘を差し出したところがあるという話をした。やがて11月に入り、冬を迎えてさらに生活は厳しくなり、名主たちも、自分の村から餓死者が出ないようにするために懸命だった。

しかし代官所からの通達はますます厳しくなり、困り果てた名主たちは、前に代官が言っていたように、娘を差し出す以外に方法がないという結論に達した。

この地の旧家に吉右ェ門という者がおり、この地方でも評判の美しいおよねという娘がおり、この娘に白羽の矢が立った。およねには新左という言い交わした相手がおり、本人はもちろん、両親も親戚一同もみな反対だった。たとえどんな理由を付けようとも、年貢米の代わりの人柱にほかならなかった

しかし、他に妙案があるわけでもなく、名主たちは入れ代わり立ち代り吉右ェ門の許を訪れ懇願した。およねも村の窮状には心を痛めており、ついに泣く泣く承諾した。その年の春に、雪が消えるとおよねは多くの村人たちに見送られ、住み慣れた村を後にし、盛岡に向ったという。

この地蔵は、およねを奪われた新左が刻したものとも伝えられるが、それが真実かどうかは定かではない。