岩手県西和賀町沢内字太田…碧祥寺境内

2011/08/01取材

この地は、もと沢内の深沢城主太田氏の冬の屋敷であった。太田氏はもとは筒井氏を名乗っており、北上市の二子城を本拠とする和賀氏の重臣で、この沢内太田の深沢館 に入ったことから、深沢、あるいは太田と称した。

和賀氏は豊臣秀吉の奥州仕置きで所領を没収されたが、和賀義忠はこれをよしとせず、葛西・大崎一揆と同時期に、和賀氏の旧臣らとともに兵を挙げたが敗れた。

その後、関ヶ原の戦いの際に、義忠の忘れ形見の和賀忠親が、伊達氏の支援を受けて兵を挙げ二子城を奪還したが持ちこたえることが出来ず、岩崎城に退き篭城した。しかし南部勢の猛攻の前に滅亡に瀕し、太田縫之助は忠親を深沢館に迎えて一旗あげようとした。

しかしこの事が南部氏に知られ、花巻城の北信愛率いる大軍が押し寄せ、城は焼かれ、太田縫之助は傷つき捕らえられ、この地で首を落とされた。