岩手県北上市和賀町字岩崎

震災前取材

  • 夏油川と城山
 

岩崎城は夏油川の左岸に沿った比高30mほどの台地にあり、城の規模は東西600m、南北300mであった。台地上の詰城とその西北に位置する台地の下の城内とに分かれていた。詰城は出丸城の台地突端部のほか、南北に連なる三つの郭から成っており、郭外には組小路といわれる武家屋敷があった。各郭を仕切る空堀は深さ15mになるものもあり、各郭の周縁には高さ2mの土塁が築かれていた。城は和賀川の湿地帯を前面に控え、堀と土塁があった。

現在は、本丸跡に天守を模した岩崎公民館が建っているほか、空堀、土塁、門跡が残っている。北、東、西は急崖になっており、攻めるには三の丸を落とした後に、二の丸からの矢玉を浴びながら南の口から攻め上るしかないだろう。南部利直が、この城に篭る和賀一揆勢を攻めあぐねたのももっともと思える。

岩崎城周辺は鎌倉時代に和賀景行に譲られたところであるが、創建は不明である。南北朝時代には須々孫氏と鬼柳氏との領界に近く、暦応4年(1341)には岩崎楯で合戦があり、鬼柳清義が討死にしている。戦国期も岩崎城は和賀氏が有したが、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原合戦に和賀義忠は参陣しなかったため、和賀氏は所領を没収された。

これに当主和賀義忠らが反発して蜂起したが、間もなく鎮圧され、義忠も横死し、和賀氏領は南部氏に与えられ、天正20年の城郭破却令により岩崎城も破却された。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際、和賀忠親らが伊達氏の支援の下、一揆を起こしたが岩崎城に孤立し、慶長6年(1601)に南部軍によって攻略された。一揆鎮圧後、岩崎城は南部氏により修理され、慶長7年(1602)に柏山明助が入城して柏山氏が藩境の警護に当たった。