岩手県遠野市松崎町光興寺

震災前取材

  • 阿曽沼氏歴代の墓
この地には、中世の遠野地方の統治者である阿曽沼氏歴代の霊が祀られている。五輪塔は、もと阿曽沼氏の菩提寺である養安寺にあったもので、室町期の物と考えられ、この地方では最古の物である。この地域は、幾度も戦場になった地域で、そのためか、中央の五輪塔は泥田の中から出土した。

阿曽沼氏は、源頼朝の奥州征伐に従軍して功があり、閉伊郡遠野保を給せられ、南北朝期に下野国阿曽沼郷からこの地に入部し、横田城を拠点としたと考えられる。

永享9年(1437)、阿曽沼秀氏のとき、阿曽沼氏一族である大槌氏は、遠野十二郷を支配していた遠野阿曽沼氏にとって変わろうとし、気仙郡の岳波氏、唐鍬崎氏らとともに横田城に押し寄せた。阿曽沼氏は籠城し、三戸南部氏の援軍を得てなんとかこれを撃退した。

戦国期、阿曽沼広郷のころには、支配領域は遠野保の領域を越えて閉伊郡海岸部まで拡大していた。また広郷は、遠野という僻遠の地にありながら天正7年(1579)、使者を京都に送り、織田信長に白鷹を贈っており、天下の形勢に通じていたといえる。広郷はよく遠野十二郷を含む閉伊郡をも支配していたが、一族である鱒沢氏ら領内有力者の離反に苦しめられてもいた。

広郷は、信長に誼みを通じるなど、天下の形勢に目を配り如才のなさを示していたが、豊臣秀吉に対しては、「秀吉公の素性卑しきを軽んじ、永く天下の武将になるべからずと侮り、帰服の音信を絶し、ひたすら近国の領主と都邑を争う」とし帰服せず、天正18年(1590)の小田原の陣に参陣することはなかった。このため、葛西氏や大崎氏らと同様に、阿曽沼氏も、領地没収となるところであったが、蒲生氏郷らの尽力により、南部氏の付庸となることで辛うじて領地を全うすることができた。

慶長5年(1600)、広郷のあとを継いだ阿曽沼広長は、南部利直に従い最上救援のため出兵していたが、南部利直は、遠野の支配を強めるため、阿曽沼氏追い出しを計り、一族の鱒沢広勝らに遠野城を占領させた。阿曽沼広長は帰るべき城を失い、妻子は脱出の途中殺害され、自ずからは妻の実家である気仙郡世田米城に走った。

阿曽沼広長は遠野城奪回と妻子の仇を討つため、伊達領気仙郡内の領主の支援を受けて、遠野奪還に動いた。阿曽沼勢は三度にわたり遠野に攻め込んだが、期待していた旧家臣らの支援も少なく、鱒沢氏や平清水氏らの堅い守りに阻まれ、遠野奪回の企ては挫折した。広長は悲憤のうちに世田米で生涯を終え、阿曽沼氏の嫡流は断絶した。

その後、南部氏に臣従し、遠野の所領を安堵された鱒沢氏や平清水氏らも、結局断絶や切腹の憂き目に会い、八戸から清心尼ら八戸南部が入部してからようやく政情が安定していくのである。

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