岩手県遠野市松崎町光興寺
震災前取材
清心尼は、盛岡南部藩主の南部利直の姪にあたり、八戸南部第二十代当主直政の夫人だった。直政は、徳川家康の六男で、伊達政宗の娘婿でもある松平忠輝の越後高田城造営を命じられ越後高田にあったが、かの地で急に病死した。そしてまた嫡男の久松も直政の葬儀の日に急死した。当時、八戸では、これらのことは南部藩の中央集権化をねらう盛岡南部の陰謀であるといった噂が駆け巡ったという。
清心尼は、南部利直の勧める縁組に対し即座に髪を切り断ったという。利直もやむを得ず男子のいない八戸南部の支配を清心尼に任せた。利直は、その後も清心尼の娘に対して次男政直などを送り込もうとしたが、清心尼はこれらも断り、八戸南部の一族の新田氏から直義を婿養子に迎え、二十二代を継がせた。直義は、二代将軍徳川秀忠の上洛に際し、利直に従い名代として大役を果たすなど利直によく仕え、利直から信頼を得た。
この遠野の地は、かつて阿曾沼氏が支配していた地で、南部氏はこれを謀略を用いて支配した地で、その後の中央集権化をねらう盛岡南部の支配に対し治安は定まらなかった。このため盛岡南部は、この地に八戸氏を配することとしたが、これに対して八戸は、これも謀略であるとし反発する声が強かったという。しかし清心尼は、これらの声に耳を貸すことなく、さっさと遠野入部の準備を進め家中の不満の声を収めた。
直義は常に盛岡の利直の近くに仕えていたために、遠野での治世は主に清心尼が行い、その善政により、次第に遠野の地の政情は安定したものになったと云う。