岩手県遠野市遠野町第五地割

震災前取材

  • 南部神社
別名:鍋倉神社

南部神社の創建は南北朝期で、当初は八戸に建立されたものが、八戸南部氏の遠野への移封にともないこの地に移されたと思われる。鍋倉城の麓にあったことから鍋倉神社とも呼ばれていた。

祭神は、後醍醐天皇の南朝に忠節を尽くした四代師行、五代政長、六代信光、七代信政、八代政光を、勤皇五世として顕彰するために創建された。その後、昭和34年(1959)に、初代から三代までを合祀し現在に至る。

南北朝期に甲斐にあった南部師行は奥州に下向した。師行は北畠顕家に属し、陸奥国代として、先に奥州の地に入っていた惣領家の三戸南部氏をしのぐ勢いをみせるようになった。しかしそれも南朝方の衰退により、八戸南部も衰退していく中、南部神社はその正当性を示すために建立されたものとも考えられる。しかし結局は三戸南部氏が南部氏の宗主権を掌握し、八戸南部氏は八戸氏を称し、以後、南部氏の指揮下に入った。

・初代実長…甲斐の南部郷で、日蓮上人を招き身延山久遠寺の基を築いた。
・二代実継…元弘元年(1331)北条高時征討に参画し捕らわれ、京都の六条河原の露と消えた。
・三代長継…守邦親王の命を受けて奥州に兵を進め功を挙げた。
・四代師行…奥州に下向し、八戸根城に拠って北奥を治め、延元2年(1337)南朝方として陸奥国司北畠顕家に従い、足利氏征討のため京都に兵を進め、各地で戦功を立てたが、泉州石津で、家士108名とともに討ち死にした。
・五代政長…元弘3年(1333)、護良親王の命により、新田義貞とともに鎌倉を攻略し功を挙げた。
・六代信政…建武2年(1335)、父の政長に代わり、北畠顕家の西上軍に従い、足利尊氏を九州に敗走させ、その功により感状を賜った。
・七代信光…正平年間(1346~70)、奥州の南朝勢力回復のため各地で奮戦し、後村上天皇より戦功の綸旨を賜った。
・八代政光…南北合一の後に屈服を快しとせず、本領の甲斐の地を捨てて八戸に移り、父祖の遺志を継いで孤忠を貫いた。

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