岩手県花巻市東和町安俵

2011/08/02取材

 

安俵(あひょう)城は、南北に長い古い河岸段丘上に築かれ、段丘全体を利用した平城である。

周囲に水堀をまわし、南側から北に、城内町、三の郭、二の郭、一の郭と連なる連郭式の縄張りになっている。それぞれの郭は、東西に堀を設け、周囲の水堀から水を引き込んでいた。台地の南端の場内町は領民の町で、堀の内側に置かれている。

安俵(あひょう)城は、坂上田村麻呂の築城であると も伝えられるが定かではない。安俵城は、和賀氏の下向に従い和賀郡に入り、安俵を中心に所領を得た和賀氏の重臣小原氏が安俵五館の本城として築いた城である。

小原氏は、当初は倉沢に居したが、小原政継のときの応永7年(1400)に安俵城に移った。天正18年(1590)、小原忠秀のときに、豊臣秀吉の奥州仕置により和賀氏は所領を没収され、小原氏も190年間居住していたこの地を追放された。この地は南部氏の支配下となり、安俵城には南部氏の家臣の中野修理直康(九戸政実の弟)が城代となって管理したが、天正20年(1592)に破却された。

その後、追放された忠秀は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の際に、伊達政宗の援助を受けて和賀忠親らとともに一揆勢に加わり、安俵城の奪還を試みた。しかし関ヶ原の戦いが予想に反して早く決着し、最上の陣から取って返した南部勢に攻められ敗れ、その後、忠親らとともに仙台で自刃した。