岩手県花巻市東和町土沢

2011/08/02取材

 

城は猿ヶ石川の北岸にあり、後方には釜川が流れ、その間を南西に伸びる丘陵に築かれている。御本館は約70m×70mで、その他に中館、西館、東館、大手桜丸、斉雲郭などの郭で構成されている。北東の山手の稚部川から山の中を樋を通して水を引き、前面に水堀を配していたと云われる。城内中段に侍屋敷、その下には足軽屋敷を配し、外側には町民屋敷が置かれていた。

土沢城は、南部氏が近世になって仙台藩との藩境の守備を固めるために築いた城である。この地には中世の頃に十二鏑館と呼ばれる城館が存在していたとされるが、その詳細は不明である。

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の際、南部氏の支配下にあった田瀬館や安俵城が伊達政宗の援助を受けた一揆勢に攻撃された。また、伊達氏により藩境の上口内城が整備された事により、慶長17年(1612)、盛岡藩初代藩主南部利直の命により築城された。

葛西氏滅亡後に南部氏に仕えていた江刺長作隆直を新堀館より移し、この地に1千700石を与え城主とし伊達氏に備えた。

正保4年(1647)に城下町に大火があり、これにより城も焼失したが間もなく再建された。しかしその後時代が安定し、土沢城の存在意義も薄れ、寛文10年(1670)に廃城となった。

江刺氏は、その後もこの地を領し治めていたが、天明元年(1781)に家中騒動によって断絶した。