岩手県花巻市東和町毒沢

2011/08/02取材

  • 毒沢城跡、城域図(現地解説板)
 

毒沢城は、毒沢と中内の間の丘陵地の尾根頂部を主郭とした和賀氏の一族の毒沢氏の山城である。

主郭は比較的狭く、根小屋式の城館で、居館は別に山麓にあったものと思われる。主郭は東西に二段になっており、周りには、同心円状に数段の段郭が配されている。西と北西に伸びる尾根には小郭が配され空堀が切られている。

北東側尾根には、空堀で区画され、数段の段郭に巻かれた北郭が置かれ、東側尾根にも小規模な東郭が配されている。

和賀氏一族の毒沢氏の城館として知られているが、調査の結果では、それ以前から使用されていたことがわかったが、毒沢氏が本格的に修築し拠点としたと考えられる。毒沢氏は、和賀氏十八代政義の三男の盛義が、貞治5年(1368)、濁沢(毒沢)に200余町を領し移り住んだとされる。それ以後、毒沢氏の居城として和賀氏の重要な拠点となった。

豊臣秀吉の奥州仕置により和賀氏の所領は没収され、毒沢氏もこの地を追放された。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際に、和賀忠親は伊達政宗の援助を受け兵を挙げた。毒沢義森もこれに加わったが、関ヶ原の戦いの早い決着で目論見ははずれ、和賀氏の一揆は失敗した。義森は翌年、主君和賀忠親とともに仙台で自刃し果てた。

毒沢氏はその後伊達氏に臣従し、只野と改め、宮城県の中新田に1千200石を領した。その後、毒沢義森の孫にあたる勝姫が伊達政宗の側室となり一男をもうけ、それが後の寛文事件で有名な、一関三万石の伊達兵部宗勝となる。