岩手県岩手郡雫石町字古館

2013/04/28取材

 

 

 

雫石城は、雫石川の左岸の比高約15mの河岸段丘上に築かれた。東西に細長く延び、主郭、二の郭、三の郭、西郭で構成されており、各郭は空堀で区切られている。城域は、東西約250m、南北約100mの規模で、主郭は東西約90m、南北約60mあり、城域の東端に位置している。現在は、主郭跡に八幡宮が祀られており、その他の城域は住宅地と畑になっている。

雫石城は、平安時代末期に戸沢氏によって築城されたと伝えられる。戸沢氏は、平忠正の孫衡盛が、寿永年間(1182~84)に大和国三輪よりこの地に下向したのが始まりである。文治5年(1189)、衡盛は源頼朝の奥州征討に参陣し、その功により滴石荘、出羽国山本郡の地頭職に任じられた。その際、滴石荘戸沢村に居を構え戸沢氏を名乗った。

南北朝時代には、戸沢氏は南朝方に属し、暦応3年(興国元・1340)頃には、北畠顕信が雫石城を拠点とし、大幅に修改築を行ったと思われる。戸沢氏は北畠顕信の下で、三戸南部氏、和賀氏等とともに、斯波氏など陸奥の北朝勢力と戦った。顕信は、貞和2年(正平元・1346)から観応2年(正平6・1351)まで在城した。

南北朝合一後の雫石戸沢氏の動向は定かではないが、勢力は衰退していったと思われる。そのようなことからか、応永30年(1423)、戸沢家盛の代に、出羽国仙北郡の角館城に居城を移し、雫石城には一族を残した。天文年間(1532~55年)、三戸南部氏への服属を拒否したことから、は石川高信率いる南部勢の攻撃を受け、手塚左衛門尉が城主であった天文9年(1540)に落城した。

その後しばらくの間は南部氏の支配下に置かれたが、天文18年(1549)に高水寺城主、斯波詮高の攻撃を受け敗れ斯波氏の支配下となり、斯波氏は遠野の阿曾沼氏の一族である、綾織広信を迎え、城を整備再建させた。しかし天正14年(1586)に南部信直は高水寺城の斯波氏を攻め、そのとき雫石城も攻撃を受け落城し、再び南部氏が支配するところとなった。南部氏は八日町太郎兵衛を城代として置いたが、その後の豊臣秀吉の破却令により、天正20年(1592)に破却された。