岩手県金ヶ崎町西根字諏訪小路

震災前取材

 

別名:胡桃館、金ヶ崎要害、白糸城

城内地区周辺は、北上川と胆沢川の合流点にできた洪積層台地で、自然が創った要害の地である。約1100年前には、征夷大将軍坂上田村麻呂が、北方の夷族悪路王(アテルイ)を討伐する為、この地に拠点を築いた。また、約950年前の安倍氏の時代には、 安倍頼時の義弟に当たる金為行の居城があり、頼時の娘 白糸姫が在城(白糸城)していたとも伝えられている。

戦国時代には小野寺氏が城主。和賀氏の勢力圏だったと思われるが、天正9年(1581)の糠部の九戸政実(くのへまさざね)の侵攻を許した合戦では、城主の小野寺宗道は葛西晴信(かさいはるのぶ)に助力を求めている。

天正19年(1591)、秀吉は全国統一を成し遂げた。このあと金ヶ崎は370年余りにわたって伊達氏の支配下におかれた。金ヶ崎城は、仙台藩北限に位置し、南部藩に備えるもっとも重要な城(要害)だった。寛永12年(1644)に、伊達の家臣である留守氏、桑折氏のあと、寛永21年 (1653)、大町備前定頼が、東山(現在の東磐井郡付近)藤沢から百余名の家臣を引き連れてこの地に入り、城下町を形成した。

城は、大町氏の居館である二ノ丸と、本丸、東館、蔵館、観音館、大庭(馬場)から構成され、その面積は六町四方(36ヘクタール)あったと言われており、それぞれの館は堀や空塀、土塁で囲まれていたと伝えられている。

金ヶ崎要害は北上川と胆沢川の合流点の舌状台地上にあり、北上川に沿って要害を取り囲むように武家地、南北に走る奥州街道の南北両端に足軽屋敷、中央部に町人地が形成され、要害は樹木帯によって周囲の河川や田園地帯とは明確に区画された。

現在は、二の丸跡がわずかにその痕跡をとどめて おり、堀跡や土塁の名残が住宅地の中に点在しているのみである。特に二の丸に続く大手口近辺は、一部堀跡が見られるものの住宅地になっており、往時の伊達要害の姿を思い起こすのにも困難な状態。

しかし、町内のあちこちに武家屋敷が残り、 往時の面影をしのばせる。