岩手県一関市舞川字原沢

震災前取材

 

嘉応2年(1170)、鎮守府将軍藤原秀衡が、京都北野の天満宮を分霊し、相川柚野の地に勧請したのが始まりと伝えられる。

平泉没落後は、相川の氏神として地域の崇敬を集めていたが、相川木戸の地を経て、寛永2年(1625)現在地に遷座した。

境内には、頼三樹三郎の記念碑や戊辰戦争に関わる解難碑がある。

 

・頼三樹三郎碑

この地に残る石碑は、頼三樹三郎が、東北地方から蝦夷地へと遊歴した折に書いたもの。

三樹三郎は、頼山陽の第三子として京都に生まれた。江戸で儒学を学んだが、尊王運動に感化され、徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の石灯篭を破壊するという事件を起こした。

東北・蝦夷地遊歴の後に京都に戻り、勤王の志士として活動した。(1853)にペリーの来航で尊皇攘夷運動が高まり、将軍後継者争いが勃発すると、尊王攘夷推進と一橋慶喜擁立に動き朝廷に働きかけたため、大老の井伊直弼から危険人物と見なされ、安政の大獄で捕らえられ、江戸小塚原刑場で斬首された。