岩手県藤沢町大籠字右名沢

震災前取材

 

かつて伊達領だったこの地は切支丹が多く、多数の殉教者が出た。

この地は、当時の伊達領にあって、製鉄の先進地だった。この製鉄の技術は、永禄年間(1558~69)に、備前から千松大八郎、小八郎の兄弟がこの地にもたらした。大八郎、小八郎の兄弟は熱心な切支丹で、鉄の精錬の指導をしながらキリスト教の伝道を行った。

この製鉄などの先進的な技術のため、伊達政宗は比較的切支丹には寛容だった。しかし元和6年(1620)、幕府の圧力により仙台藩にも切支丹禁教令がしかれ、弾圧が厳しくなった。それでも政宗が存命中は、殉教者は一部にとどまっていたが、寛永13年(1636)、伊達政宗が没し、島原の乱が起こると、幕府の強い意向により、この大籠の地でも大弾圧が始まった。

寛永16年(1639)には、地蔵の辻で84名、翌年には、地蔵の辻と上野刑場でそれぞれ94名、その他を含めて300名を超える殉教があった。その弾圧は熾烈なもので、逃げるものも容赦なく鉄砲で撃たれ、街道のいたるところに首がさらされ、処刑された遺体は野にそのままさらされ、葬ることも許されなかった。

この大籠の地に、これらの凄惨な歴史を風化させないために、資料館が建てられ、その後の隠れ切支丹の遺物とも合わせて収蔵展示している。