震災前取材

岩手県平泉町平泉字衣関

 

中尊寺の開基は、嘉祥3年(850)、慈覚大師が弘台寿院を開創したのがはじまりで、その後貞観元年(859)清和天皇から「中尊寺」の額を賜ったと伝えられている。その後12世紀初頭、奥州藤原氏初代の藤原清衡が堀河天皇の勅命を受けて中興し、堂塔伽藍を整備した。

清衡は、在庁官人の藤原経清を父とし、安倍頼義の娘を母とし、前九年の役のさなかに生まれた。前九年の役の結果、安倍氏は滅亡し、父の経清は安倍氏側で戦ったために捕らえられ惨殺された。清衡の母は、安倍氏にとっては敵である清原武衡と再婚させられ、清衡は連れ子として清原氏の養子となった。

清原武衡の死後、清原氏は兄弟が領地を巡って争い、それが後三年の役に発展していった。結局この争いは、源義家を味方にした清衡が勝利し、清衡は奥六郡を支配下に収めた。清衡は当初、江刺郡豊田に館を構えていたが、嘉保4年(1094)頃には居館を平泉に移した。

清衡は、前九年、後三年の役の戦没者を含め、あまたの霊を浄土へ導き、奥州全体を仏教の理想の下に治めたいとの願いから中尊寺を整備し、金色堂を建立し、大治元年(1126)盛大な落慶供養が行われた。

文治5年(1189)、源頼朝率いる鎌倉軍が奥州に攻め込み、阿津賀志山での戦いに平泉軍が敗れると、藤原泰衡は平泉に火をかけて逃亡し、平泉は灰燼に帰した。しかし中尊寺は金色堂をはじめ諸堂は焼け残り、源頼朝の庇護を得て存続した。その後、建武4年(1337)に大きな火災があり、金色堂を残してほぼ全焼してしまった。

その後は中尊寺は衰退し、「奥の細道」の旅をしていた松尾芭蕉が中尊寺の荒廃ぶりを見て嘆いたのはよく知られている。しかし江戸期を通じて、伊達氏の庇護を受けて堂宇の補修、建立が行われ、明治42年(1909)に本堂が再建。昭和37年(1962)より6年をかけて金色堂の解体修理が行われ現在は創建当時の姿を戻しつつある。

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