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福島県湯川村浜崎字北殿町

 

別名:藤森城

浜崎城の地は、会津盆地のほぼ中央を通る米沢街道の要衝にあたり、会津北部を抑える重要な位置にあたる。このため、葦名、伊達、蒲生の歴代会津領主はこの地を重要視していた。

当初は、現在の地の東側、日橋川と大塩川の合流地点にあり、至徳年間(1384~86)に、浜崎主馬が築いたとされるが、観応3年(1352)、葦名直盛はこの城を攻めており、その以前からこの城はあったことになる。

宝徳3年(1451)、葦名盛信が没すると跡目争いが起き、葦名氏と同族の猪苗代氏により浜崎城は攻められ落城した。しかしこれは白河結城義季が和議を斡旋し猪苗代氏は引き上げた。しかし享徳2年(1453)、葦名家臣松本右馬允通輔は猪苗代氏に通じ、浜崎城を落とし葦名氏と対立したが、白河結城氏は葦名氏に付き、浜崎城は攻められ落城した。これにより浜崎政頼や松本通輔の一族は滅亡した。

その後、奥州仕置により会津に蒲生氏郷が入ると、この地には蒲生頼郷を入れた。慶長6年(1601)、蒲生秀行の代には蒲生郷貞が浜崎の地に入ったが、水害が多かったため、日橋川右岸の現在の地に城域を移し、新たに築城した。その後、一国一城制が敷かれてからも、蒲生氏はしばらくの間、この城を「茶屋」と称しそのまま残しておいたと云う。

現在は、宅地や畑地になっているが、土塁と堀跡の一部が良好に残っており、また横矢や虎口と思われる地形も見られる。しかし中央部分を市道が分断し宅地化は進んでいるようだ