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福島県須賀川市本町
楽等躬は、須賀川宿で問屋を営み、須賀川の駅長の要職をつとめていた。寛永14年(1637)に生まれ、須賀川俳壇の中心的な人物で、「葱摺」や「伊達衣」などの著書がある。
等躬の祖は白河結城氏で、後代白河から中畑(福島県矢吹町)に移りその城主となった。豊臣秀吉の奥州仕置で白河氏は所領を没収された。しかしこれを是としない等躬の祖の白河晴時は、天正17年(1589)、城を捨てて勢至堂峠の馬尾滝で秀吉を銃で狙撃したが失敗、隈井姓に変えて身を隠し、天正19年(1591)、蒲生氏郷に従い九戸政実の乱に出陣し討死した。
子の晴倶は幼少であったため、家臣の相楽孫右衛門が預り須賀川に逃れ、成長後、結城から相楽姓に名を変え、これが相楽等躬の祖父となる。
松尾芭蕉とは、問屋の用向きで江戸に上ったとき、俳諧を通して知り合ったのだろう。芭蕉が須賀川に長期逗留したのもそのときの親交があったからと思われる。芭蕉が万句興行を催した際、次の発句を贈呈している。
三吉野や 世上の花を 目八分 …等躬
正徳5年(1715)、77歳のときに旅先で命を落とした。このときの道中、標葉(福島県双葉郡)で詠まれたと思われる句の碑が菩提寺長松院の本堂前に建てられている。
あの辺は つくば山哉 炭けふり …等躬