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福島県大玉村玉井字前ヶ岳

2011/04/05取材

 

遠藤ヶ滝は、不動尊が祀られた堂の脇から、杉田川渓谷の遊歩道を約30分登ったところにある。この滝は、昔、文覚上人(遠藤盛遠)が深山霊谷で滝に打たれ荒行を修めた場所といわれている。遠藤ヶ滝不動尊は山岳修行道場となり多くの修験者が訪れた。滝への途中には女人堂碑が建てられており、昔はその先に女性が足を踏み入れる事は禁じられていた。

文覚上人は、摂津源氏傘下の武士団である渡辺党遠藤氏の流れで、俗名を遠藤盛遠という。北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王に仕えていたが19才で出家した。その後、後白河天皇の不興をかい、伊豆に配流された。

文覚は伊豆で、同じく伊豆の蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得た。挙兵前から頼朝の相談相手だったようで、木曽義仲の京での狼藉を糾問に出向いたりもしている。

頼朝が征夷大将軍として存命中は、幕府の要人として大きな影響力を持っていた。しかし、頼朝が死去すると、政争に巻き込まれ佐渡へ配流され、また後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬へ流罪となる途中病死したとされる。

「平家物語」中でも多く扱われており、海の嵐をも鎮める法力を持つ修験者として描かれ、また頼朝に、亡父源義朝の髑髏を示して蹶起をうながしたりする話は有名である。

またこの地では次のように伝えられる。

承安(1171~74)の頃、遠藤時遠の息子に盛遠という若武者がいた。盛遠には源渡(みなもとわたる)という親友がおり、源渡の妻は、袈裟御前(けさごぜん)と呼ばれる絶世の美女だった。

盛遠は渡の家を度々訪れるうちに、袈裟御前に思いを寄せるようになり、ついにその思いを袈裟御前に打ち明けた。袈裟御前は、夫を思い、また盛遠の思いに一人悩んだ。袈裟御前は、自身の存在が罪深いものという思いにいたり、盛遠は、袈裟御前への思いの強さから、渡がこの世にいなければという思いを抱くようになった。

ある時、袈裟御前は、訪ねてきた盛遠に「夫は今夜、酒に酔って高殿で寝ている」と語りかけた。それを聞いた盛遠は、自分の思いが通じたものと思い、夜陰に紛れて寝所に忍び込み、一刀の下に首を斬り落とした。ところが、その首は、夫の身代わりとなった袈裟御前のものだった。

盛遠は悲しみのあまり俗世を捨て、仏門に入り修行の道に救いを求めた。名を文覚と改め、熊野権現に誓い、那智滝で千日間の荒行を修め、山伏となって全国の霊地を巡歴した。

盛遠はやがて陸奥にやってきて、杉田川を渡ろうとした時、川面に尊い梵字が浮かんだのを見て、上流に不動明王がいる事を悟り、深く渓谷に分け入り、この滝の傍らの石室に篭り荒行を修めた。以来この滝は、遠藤ヶ滝と呼ばれるようになったと云う。