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福島県喜多方市慶徳町新宮字熊野

 

新宮熊野神社は、前九年の役の際に源頼義が戦勝祈願のために、熊野堂村(現在の会津若松市)に勧請したのが始まりといわれ、その後、後三年の役の時に頼義の子の源義家が、現在の地に熊野新宮社を遷座造営したと伝えられる。この時、熊野本宮社、熊野那智社も遷座造営されたが、後年、この2社は新宮社に遷され、本宮・新宮・那智の3社が祀られている。

最盛期には三百余の末社や寺院、霊堂が立ち並び、100人以上の神職を置き、国家安寧を祈願し、奥州の熊野と称され崇敬されていたという。しかし、文治5年(1189)、佐原義連によって寺社領は悉く没収され(異説あり)一時衰退したが、建久3年(1192)、源頼朝より二百町歩の領田を与えられ、文殊菩薩の像を安置せられ再び勢力を取り戻した。

その後、この地は新宮氏が支配し、神社を守護神として崇め、多くの神器を寄進し、神社の保護に努めた。しかし新宮氏が蘆名氏に滅ぼされると庇護を失い、16世紀後半になると戦乱に巻き込まれ、また慶長16年(1611)の大地震では多くの建物が倒壊し社殿は荒れ果てた。

その後、慶長19年(1614年)、蒲生忠郷によってかつてのものよりも一回り小さい拝殿(現在の長床)が再建され、会津松平氏時代は祈願所とされ、度々藩主の代参が行われた。

現在に残る「長床」は、国の重要文化財に指定されており、44本の太い柱が立ち並ぶ、正面9間、側面4間の壁も窓もない吹き抜けの壮大な建物である。熊野神社の拝殿ともいわれており、その昔、修験者が厳しい修行を行う為の道場として用いられたと伝えられている。

明治時代初めに廃仏毀釈のあおりを受けて、多くの仏像や文化財は失われてしまったが神社は存続し、現在は神社近辺の集落住民で結成された保存会によって維持管理されている。