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福島県喜多方市塩川町新江木

 

自由民権運動の喜多方事件で知られる弾正ヶ原は、田園の中の微高地で、葦名氏家臣栗村弾正清正の館跡。現在は史跡公園として整備されている。

福島県令三島通庸は、会津地方から新潟県、山形県、栃木県へ通じる県道を整備する計画「会津三方道路開削計画」を立案した。これは若松を起点とし、南栃木県に達する7里、東北山形県界に11里、西北新潟県界に24里という大工事であった。この計画は、実現のために農民に工事の人夫、または人夫賃を出させるなど大きな負担をかけるものだった。さらに工事に従事しない者の財産を競売に出すなど、この工事を強行に押し進めた。

会津地方は積雪が多く冬春の工事は不可能で、工事は夏秋の農繁期になり、また一家の婦人や老人の代わりに一家の男子がこれに代わらなければならず、農民にとっては深刻な問題だった。当時は、自由民権運動が全国的に高まりを見せていた時期で、河野広中のひきいる自由党と福島県令三島との対立が深まった時期の頃で、体制側と民権派という対立構図がこの事件でもでき上がった。福島自由党は、この農民の反対運動を組織し指導していった。

これに対して、三島県令は郡役所と警察力を総動員して反対者の弾圧に乗り出した。出夫に応じない農民から、戸板、畳、戸棚の道具や種籾、牛馬まで差し押さえて競売に処し、自由党のめぼしい活動家を「扇動者」として次々と検挙していった。農民達は、事態を訴訟によって解決しようと謀り、訴訟裁判の終結をみるまでは、正夫も代夫賃も納めない闘いを進めていった。

しかし、計画に反対する民権派の合法的な手続きはことごとく却下され、民権派の指導的立場だった宇田成一らが不当逮捕されるに至り、民権派はついに行動に踏み切った。明治15年(1882)11月、弾正ヶ原には千数百名の農民が集結し、この不当な権力に対し怒り、リーダーたちはケヤキの木に登り演説を行ったと云う。農民達は同志の釈放を求め喜多方署に押し寄せ、抜刀した警官との間で乱闘になり、数名の負傷者を出した。この事件では、約2千人が逮捕され、河野広中は軽禁獄7年の刑を受けるなど6名が処罰された。