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福島県会津若松市東山町大字石山…会津武家屋敷

 

西郷頼母邸は、 会津若松市の観光スポットの「会津武家屋敷」の中心的な施設として復元されたもの。屋敷の図面が残されていたことから、忠実に復元されており、歴史的な価値は大きい。

復元された西郷頼母邸は約400坪の面積、35室におよぶ宏大な邸宅であり、親藩会津松平藩の家老職の屋敷として堂々たる風格を持つ。

西郷家は、会津藩松平家の家老職を代々務める家柄であり、万延元年(1860)、33歳で家督と家老職を継ぎ、藩主松平容保に仕えた。文久2年(1862)、幕府から京都守護職就任を要請された容保に対し、政局に巻き込まれる懸念から辞退を進言し容保の怒りを買った。その後も、京都守護職に対して否定的な姿勢を崩さず、禁門の変が起きる直前には上京して藩士たちに帰国を説いている。しかしこのことで家老職は解任され、蟄居を命じられた。

慶応4年(1868)、戊辰戦争が勃発すると家老職に復帰した。この時期、頼母を含む主な重臣達は、容保の意に従い新政府への恭順に備えていたが、新政府側からは容保父子の斬首が要求され、やむなく抗戦することになった。頼母は白河口総督として白河城を攻略し新政府軍を迎撃したが敗れた。会津防衛に方針を転換し侵入路の峠の1つを守っていたが、新政府軍は母成峠を突破し城下へ侵入した。

このとき、頼母邸にあった妻の千恵子を始め、母や娘など一族21人は、戦いの足手まといになるのを恐れ、屋敷でことごとく自刃した。

若松城に帰参した頼母は、再び恭順を勧めたが、会津藩士の多くは徹底抗戦を主張し、頼母の意見は入れられず、刺客を差し向けられ城から脱出した。このとき刺客の任に当たった者たちも、敢えて頼母の後を追わなかったと云う。

会津から落ち延び、その後榎本武揚や土方歳三らと合流し箱館戦線を戦い抜いた。旧幕府軍が降伏すると箱館で捕らえられ、館林藩預け置きとなった。明治5年(1872)赦免され、その後は神社で神職を務め、政治運動にも関わっていたが、西南戦争を起こした西郷隆盛と交流があったことから明治政府に職を追われた。

以後日光東照宮禰宜職などを経て明治36年(1903)会津若松の十軒長屋で74歳で没した。