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福島県福島市飯坂町湯沢

 

飯坂温泉は、鳴子、秋保とともに奥州3名湯に数えられ、2世紀頃に日本武尊が東征の折に病に伏し、佐波子湯で湯浴みし、たちまち平癒したと云う。都にもその名は知られ、平安時代の和歌で用いられた、みちのくの温泉の枕詞「さはこのゆ」とは、飯坂にあった佐波来湯(現在の鯖湖湯)であるという。

「あかずして わかれし人のすむさとは さばこのみゆる 山のあなたか」
と古歌に詠まれた「さばこ」は飯坂の古称といえる。

月日は流れ、悲劇の名将源義経とともにその名を伝える佐藤継信、忠信兄弟の父佐藤基治は、信夫の里を統治し「湯の庄司」とも呼ばれ、温泉とのかかわりの深さを示している。

基治は、この飯坂の地に大鳥城を築城しこれを居館としていたが、源頼朝の奥州征伐に対して敢然と出陣し敗れた。鎌倉の末には、伊達氏の一族の伊達政信が湯山城を築き飯坂氏を名乗る。この頃よりこの地は湯治場の賑わいを見せている。

江戸時代の元禄期に、松尾芭蕉と河合曾良はこの飯坂に立ち寄り、大鳥城や医王寺で継信、忠信や佐藤一族の思いに涙し、旅の一夜を飯坂に過ごした。奥の細道では次のように記す。

其夜飯塚にとまる。温泉あれば湯に入て宿をかるに、土坐に筵を敷て、あやしき貧家也。灯もなければ、ゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す。夜に入て雷鳴、雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤・蚊にせゝられて眠らず。持病さへおこりて、消入計になん。

この当時、飯坂は堀田正仲領となっていたが、上杉治下の藩令が残っておりそれには「田地を開作せず、あきないもいたさず、むざとこれあるもの其村に置べからず、宿かすまじき事」とあり、俳聖芭蕉といえども昔の人にとってはただの旅人であり、「むざとこれあるもの」だった。土間をかし筵を敷いたのは、当時の飯坂の人にとっては精いっぱいのものだったともいえよう。