安寿と厨子王の伝説は、福島県と丹後地方を中心に多く残っているが、青森県の弘前市にも安寿と厨子王母子像が立っている。
福島に伝えられる安寿と厨子王伝説の中で、厨子王(岩城政孝)の祖父の政氏は、その功により、津軽郡、岩城郡、信夫郡を賜ったとあり、津軽に何らかの拠点があったようだが、津軽地方で、そのような伝説も伝承も聞いたことはない。
しかし、この地の岩木山神社には次のような伝説が伝えられている。
昔、大己貴命(大国主命)が、この地に降臨し、180人の御子を生み、穀物の種を蒔いて、子遊田と名づけた。その田の中で、白く光る沼があり、田光沼(たっぴぬま)と言った。ある時、童女が沼の中から「珠」を見つけ、大己貴命に献上した。その珠の名を国安珠といい、童女を国安珠姫という。大己貴命は、国安珠姫を娶り、往来半日命(イコハカミコト)を生んだという。
村上天皇の御代、丹後由良港の海賊が、その神珠を盗み逃亡した。郡司の長男、花若麿が、美女に扮して由良港へ行き、これを奪還。以後、岩木の神が忌み嫌うので、丹後の者が領内に入ると風雨になるという。津軽には丹後に対する独特の思いがあったようで、藩政時代にも、突然荒天になると、港役人は丹後船や丹後人を詮議し、領外に追放したという。
津軽の、安寿と厨子王の話は、以下のようなものだ。
母と安寿と厨子王は、父の岩城政氏の冤罪を晴らすため京の都に旅立つが、その途中、人買いにつかまり、丹後の山椒大夫に売られた。安寿は命がけで厨子王を逃がした。安寿は艱難辛苦の末に津軽に逃れ、岩木山に分け入って神になったと云う。
安寿と厨子王伝説は、平安時代後期に広く語り広められた仏教説話と考えられる。この地ではそれが、もともとあった岩木山の女神の、「国安珠姫」と「安寿」の共通性や、神珠が盗難された伝説などと結びつき、さらに「岩城」と「岩木」のよみが同じことから、津軽地方独特の安寿と厨子王伝説がこの地方に広がったものだろう。
岩木山の女神が安寿であるという話は藩政時代以前にはすでに成立していたといわれ、弘前藩二代藩主信枚は岩木山三所大権現(現岩木山神社)の山門に納められた五百羅漢の中に、安寿と厨子王の木像を作って納めている。また、領内に丹後の人が立ち入れば岩木山の神の怒りにふれるので必ず天候不順になるとして、出入りを厳しく取り締まったりもしていた。
津軽には昔、丹後日和(たんごびより)という言葉があった。これは、「丹後の船や、丹後の国の人間が津軽に来ると天気が荒れる」、というもので、特に津軽藩の御用湊の鯵ヶ沢周辺の海岸部では、信じられていたようだ。岩木山の女神が安寿であることを信じる人々は、丹後の船や、丹後の国の人間に対し怒り嵐を呼んでいると考えたようだ。
にわかに天気が荒れだすと、すわ丹後の船か人間がどこかにいるにちがいないと、船という船、乗組員という乗組員をつぶさに調べ、該当するものあらば、お願いして出て行ってもらうという因習が明治初期まで実際にあったという。あまりに荒れた天候が続く時には、丹後日和にちがいないと、藩を総出で丹後人を捜索したりしたとされる。