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宮古湾を臨む湊大杉神社境内に、東郷平八郎揮毫による宮古湾海戦碑が建っている。宮古湾は、戊辰戦争の際に、函館にあった榎本艦隊と、新政府軍艦隊が、激戦を行った地である。

江戸城の無血開城に対して徹底抗戦を主張した榎本武揚率いる旧幕府艦隊は、江戸を脱走後、蝦夷地の箱館を占領し、箱館政権を樹立していた。しかし、旗艦の開陽を暴風雨で失い、海上戦力でも劣勢に立たされていた。

明治2年(1869)の3月、榎本らは、新政府軍の「甲鉄」、「春日」など8隻の艦隊が宮古湾に入港するとの情報を入手した。旗艦の「甲鉄」は、フランス製軍艦で、当時日本唯一の装甲軍艦だった。旧幕府艦隊は、宮古湾に停泊するこの甲鉄を奪取する作戦を立案し実施に及んだ。

この作戦は、斬り込みのための陸兵を乗せた「回天」、「蟠竜」、「高雄」の3隻が、外国旗を掲げて宮古湾に突入し、攻撃開始時に日章旗に改めて 「甲鉄」に接舷、陸兵が斬り込んで舵と機関を占拠し奪取するという奇襲攻撃だった。いわゆるアボルダージュ=接舷攻撃で、近代以降では世界でも数少ない戦闘事例であり、刀の時代の終焉の中、武士たちの最後の意地の戦いだったのかもしれない。

海軍奉行の荒井郁之助、検分役の土方歳三、斬り込み隊の神木隊、彰義隊など合わせて約500名が3艦に乗り込み、3月21日未明箱館を出港し宮古湾を目指した。しかし、途中暴風雨に遭遇し、艦隊は離散、それでも「回天」と「高雄」の2艦は合流できたが、「高雄」は機関を損傷し修理を要し、宮古湾の南に位置する山田湾に入港した。

とりあえずの修理を終えると、「蟠竜」との合流を諦め、「回天」と「高尾」のみで作戦を実行に移すことになった。「高雄」が「甲鉄」を襲撃し、「回天」が残りの艦船を牽制攻撃するという作戦で、決行は25日早朝、夜明け前の午前4時とした。

「回天」と「高尾」は25日未明に山田湾を出港し宮古湾に向かった。その途上、「高雄」が再び機関故障を起こした。しかし航行は可能だったために、まず「回天」が「甲鉄」に接舷し先制攻撃を行い、高雄が途中で参戦し残りの艦船を砲撃牽制することになった。

旧幕府艦隊は、未明の薄明りの中の極度の緊張の中で、宮古湾の入り口に浮かぶ日出島を新政府軍の軍艦と誤認し、島に砲撃を加えた。すぐに誤認だと気づき、湾の中を伺ったが、幸いなことに新政府側の艦隊に動きはなかった。

新政府軍には、所属不明の艦船が宮古湾沖に出現したとの情報が入っていたが、新政府海軍は旧幕府軍を軽視し、海軍首脳は上陸して警戒を怠っていた。陸軍参謀の黒田清隆は、斥候を出してこれを確認するように促したが、海軍副参謀はこれを重要なものとは考えなかった。

「回天」は浄土ヶ浜沖をかすめて宮古湾の口に先に到着、しかし夜明けが迫っていたため、機関故障で速力の遅い「高雄」を待たずに単独で宮古湾への突入を開始した。

この時、新政府軍艦隊は油断し、機関の火を落とし、アメリカ国旗を掲げた回天の接近にも特に注意が払われることはなかった。「甲鉄」に接近した「回天」は、作戦通りアメリカ国旗を下ろし、日章旗を掲げて接舷、新政府軍はようやくこの奇襲に気づき、唯一警戒に当たっていた「春日」から敵襲を知らせる空砲が轟いた。

「回天」は奇襲には成功したが、外輪船であるため本来接舷向きではなく、船首が甲鉄の船腹に突っ込んで乗り上げる形となり、両艦には約3mもの落差が生じてしまった。それでも「回天」からは先発隊が「甲鉄」の甲板に飛び降り乗り移ったが、細い船首からでは乗り移るのに時間を要した。また「甲鉄」にはガトリング砲が備えられており、「回天」が乗り上げた位置は、ガトリング砲の恰好の標的となってしまう位置で、乗り移る前に「回天」甲板上で倒れる兵が続出した。

その内に、「春日」をはじめ周囲にいた新政府軍艦船も戦闘準備が整い、「回天」は敵艦に包囲されて集中砲撃を浴びるに至った。「回天」の兵たちには戦死者が続出し、艦長も戦死し、ついに作戦は中止され、「回天」は宮古湾を離脱した。

新政府軍は直ちに追撃を開始、「回天」は撤退途中に「蟠竜」と合流しなんとか箱館まで退却した。しかし機関故障を起こしていた「高雄」は「甲鉄」と「春日」に捕捉され逃げ切ることが出来ず、兵たちは田野畑村付近に上陸、船を焼き盛岡藩に投降した。

新政府軍の砲術士官として従軍していた東郷平八郎は、この「回天」による奇襲の衝撃を後年まで忘れず、「意外こそ起死回生の秘訣」として日本海海戦の勝利に繋がった。また東郷は、危険な作戦を実行し、勇敢に戦い戦死した、回天艦長の甲賀源吾について「甲賀という男は天晴れな勇士であった」と評している。

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