源頼朝は、奥州平泉の藤原秀衡の死により跡を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけていた。泰衡は、度重なる鎌倉からの圧力に抗しきれず、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、文治5年(1189)閏4月、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を襲撃し、義経は自害して果てた。

しかし、頼朝の目的は、背後を脅かし続けていた奥州藤原氏の殲滅であり、義経を匿ったことを罪とし、また家人の義経を頼朝の許可なく討伐したことを理由として、同年6月、28万の大軍を以って奥州追討に向かった。平泉軍はその日に備え、宮城県と福島県の県境の阿津賀志山を決戦の地として強固な陣を構え、17万の平泉軍を動員しこれに備えた。

平泉勢は、山麓に三重の土塁と二条の空堀からなる防塁を築き、中腹から阿武隈川まで、総延長は3.2kmに及んだとも伝えられている。当時は、阿津賀志山の中腹を東山道が通っていたと言い、街道は山の南山麓を斜めに上り、防塁の直前で枡形に折れ、防塁を越して旧長坂道から国見峠に向かっていた。防塁はその東山道を断ち切るように築かれた。

源頼朝は、8月7日鎌倉軍2万を率いて、伊達郡の藤田宿に入った。藤田は阿津賀志山のおよそ2km南西方向にあり、頼朝は阿津賀志山の防御陣地を前にして、その地の藤田館を本陣とした。この館は、前九年の役の際に、源氏の祖の源頼義、義家父子に従った石川氏の館跡で、頼義や義家もこの館を利用したと考えたのかもしれない。この藤田館は比高約30mの台地上にあり、広く阿津賀志山の山麓を臨むことができ、頼朝は藤田館で指揮を執った。

これに対し泰衡は、名取、広瀬の両河に大縄を引いて柵とし、後方の国分原の鞭楯に陣を構えた。そして阿津賀志山には、異母兄の藤原国衡を大将軍とし、侍大将金剛別当秀綱以下の精兵2万騎を配してこれに備えた。

吾妻鏡などの記述を読むと、阿津賀志山の攻防は以下のように推移したようだ。

鎌倉方の畠山重忠は、頼朝が藤田に入ったその日、夜陰にまぎれて「相具する所の疋夫80人を召し、用意の鋤鍬を持って、土石を運ばしめ、件の堀を塞ぐ。敢えて人馬の煩い有る可からず」と、防塁の一部を埋め立て、北への侵攻路を確保した。翌8日早朝、平泉方の金剛秀綱は、数千騎を防塁の前に進め戦いを挑んだ。頼朝は、畠山重忠、小山朝政、工藤行光等に命じて攻撃をかけ、激戦の末防塁を突破し、平泉勢を押し返した。秀綱は大木戸の本陣に戻り、合戦の詳細を国衡に告げ、平泉軍を阿津賀志山防塁より大木戸防塁の線まで後退させた。

中一日おいて10日の早暁、頼朝は自ずから大軍を率い、奥州勢の守る大木戸の堅陣に総攻撃をかけた。両軍の戦いは熾烈をきわめ「闘戦の声は山谷を響かし、郷村を動かす」激戦となったが、大木戸の守りは堅く、容易に突破することができなかった。

しかしこの戦いに際し、小山朝光は安藤次(あとうじ)なる者を道案内とし、藤田宿より僅かの兵を率いて、小坂峠から山中を迂回し、大木戸の後陣の山に進み、鬨の声を挙げて矢を放った。濃い霧の中、後方からの奇襲を受けて、平泉軍は大混乱に陥いった。このとき、藤原国衡は、鎌倉方の武将の和田義盛の弓による一騎打ちに応じたが負傷したという。平泉勢は結局戦意を失って敗走し、金剛秀綱は小山朝光に討ち取られ、戦いは鎌倉軍の勝利に終わった。

藤原国衡は、現在の大河原町の船岡の要害に向かったと考えられる。船岡は、前九年の役や後三年の役には、源義家の陣所が置かれた要害の地で、この地で落ちてくる兵たちを収容し、鎌倉勢と再度戦おうとしたと考えられる。しかし鎌倉勢の追撃は急で、馬が深田にはまり身動きがとれなくなったところを畠山重忠勢の大串次郎によって討たれた。この国衡の乗馬は、「高館黒」という奥州一の名馬で、畠山勢によって捕獲され、以来この地は馬取田(まとりだ)と呼ばれるようになったという。里人達はこの地に、周り8間、高さ6尺の塚を築き冥福を祈るとともに、この馬のはまった田を永年耕作することはなかったという。

鞭館に陣を敷いていた藤原泰衡は、阿津賀志山の陣が敗れたとの報に接し、また鎌倉勢が敗残兵を追撃し、国衡も討たれた知らせを受けて、周章狼狽して鞭楯から退却した。鎌倉勢は広瀬川の宮沢の渡しも突破し、各所で敗残兵を打ちながら多賀城に入った。

その後、平泉に戻った藤原泰衡は、平泉に火を放ち、蝦夷地に逃げる途中、家臣に叛かれ討たれ、平泉は滅亡した。

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