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南部盛岡藩は、二代藩主南部重直以降も、藩主の長子相続がスムーズではなく、その都度、混乱が生じていた。さらに、四代藩主南部行信の代には、鹿角金山を始めとする盛岡藩内における産金が減少し、また元禄の大凶作から、連年のように凶作が続き、4万人の餓死者を出すなど、藩財政が著しく悪化した。このため、新田開発の奨励、倹約の徹底、検見制廃止による税制改革、軍馬飼育義務の免除など様々な財政改革を試みたが効果は薄かった。

盛岡藩では財政難が進行し、江戸の借財が10余万両にまで膨らみ、参勤交代費用にも窮する事態となった。享保8年(1723)には家老以下を更迭し、諸役人を減員する倹約政策を断行して一定の効果を得たが、強引な政策に家臣の不満が高まった。さらに宝暦の大飢饉では餓死者や病死者が6万人余りに上り、加えて数度にわたる幕府の手伝い普請により、藩財政は極度に疲弊した。

そのような中で、8代藩主南部利雄は、家臣が進言すると何でも「そうしろ」と答えたということから、別名を「惣四郎様」と呼ばれていたと云うが、嫡男の利謹は文武両道で覇気のある人物であったようだが、南部重直の代からの、譜代大名と同格に列し、幕閣にのし上がろうという野望を持ち、当時の老中田沼意次に近づき、本藩に知らせず独断で政界工作を行っていた事実が露見した。これに驚いた父・利雄は、「病気のため湯治させる」と申し出て盛岡に連れ戻し、利謹は廃嫡された。

利謹は、昼間から側室の部屋に入り浸り、情事にふけるなど、非常に好色であった。側室の「るん」を溺愛し、るんの死後はその母親まで妾にするなど、その入れ込みは常軌を逸していた。その後「るん」に瓜二つであった油町の塗師の寡婦だった町人の妻を強引に側室「油御前」にした。

その後、9代から11代の南部藩主は早く没したり、幼少の藩主だったり、第11代の南部利用に至っては、将軍お目見え前に没したため、改易を恐れた重臣らにより、藩主一族から身代わりとして立てられたりもしている。

寛政9年(1797)、第12第藩主として立てられたのは、乱心とされ、既に廃嫡されていた南部利謹の次男の南部利済だった。利済は出家していたが、文政3年(1820)に還俗し、藩主利用が没したのち、南部藩主を相続した。

寛政4年(1792)にラクスマン来航事件が起きると、翌年には江戸幕府からの命令により、南部藩は兵を出して根室と函館の守りを固めることになり、財政負担が増加した。文化2年(1805)に幕府は、蝦夷地警護松前出兵の功績から南部藩は10万石加増され、石高20万石となり、積年の希望がかない家格がアップした。しかし、これは知行域の増加を伴わない表高の加増であったため、実質税収があがらないのに20万石相当の軍役を負担させられることを意味し、藩財政はさらに窮迫した。

南部藩は当時の稲作の北限地区であるにもかかわらず、水稲生産を強行したため、連年凶作に見舞われており、民衆も困窮していた。南部藩でも産業振興の努力はなされ、三陸では鼻曲がり鮭などの水産物や、製材業や製鉄業などが興ったが、藩は負債を次から次へと作り、御用金制度を用い、無理な課税を行い、産業として十分に育たないまま衰退した。

その他にも「軒別税」と呼ばれる人頭税を実施し、藩札「七福神」の大量発行をし、インフレを発生させ、武士の禄を長期にわたって借上し、これらによって、民衆の不満は高まっていた。

利済は、武備充実や殖産興業策などの積極的な政策を推進したが、普請好きで、盛岡城本丸御殿を大改造し「聖長楼」を建築、大奥の女性を7、80人から300人余りに増やし、大奥の経費は増大した。他にも広小路御殿を造営し、盛岡に遊廓を造り、志波稲荷街道の拡張整備を行うなど、財政状況も考えず、場当たり的な政策を強権的に進めた。このような、藩内感情を無視した膨大急激な計画は反感を買い、凶作の中での奢侈と増税で、最終的には三閉伊一揆を誘発し、利済は隠居に追い込まれた。

しかし、隠居後も俗に「君側の三奸」と呼ばれた田鎖高行、石原汀、川島杢左衛門を重用して藩政に介入した。ことに石原は、その筆頭格として領民の怨嗟の的となり、最終的に嘉永三閉伊一揆を誘発した。

石原汀は、母は盛岡藩南部利済の母の油御前、父は油御前の先夫の塗師善助で、利済の異父兄にあたる。油御前が利謹の側室にされた縁で殿中にて養育され、天保3年(1832)に御小姓、同6年(1835)には小頭兼御目付より御側用人となり、300石を与えられ藩政に参与し、参政兼会計総轄を勤めた。利済や石原の苛烈な一揆への対処などから、一揆衆には南部利済は、「油御前の浮気の結果、利済が生まれたもので、利済には南部氏の血が流れていない」という噂が流され、信じる者も多かった。

嘉衛6年(1853)5月、再び三閉伊通一揆が起こり、伊達領に越境して提訴するにおよび、幕府は看過すべからずと利済を参府の上謹慎を命じ、江戸に召還され、桜田の屋敷へ入ることもならず、麻布の下屋敷に幽閉され、安政2年(1855)死去した。参政石原汀、田鎖茂左衛門、川島杢左衛門らも、家禄屋敷を没収のうえ召しかかえを放たれ、石鳥谷の新堀に配流された。