岩手県の三陸沿岸から青森県の竜飛岬まで、点々と源義経の平泉からの逃避行の伝説が伝えられる。いわゆる義経北行伝説である。宮城県北部の栗原市に残る義経伝説は、その北行伝説の始まりともいえるものだ。

義経の最後について、定説的には次のようなものだ。

兄の源頼朝の追討を受けた源義経は、郎党らとともに、山伏と稚児の姿に身をやつし、伊勢、美濃を経て奥州藤原氏の許へ逃れた。藤原秀衡は、関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、文治3年(1187)10月に病没した。

源頼朝は、秀衡の死を受けて、跡を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。藤原泰衡は、度重なる鎌倉からの圧力に抗しきれず、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、文治5年(1189)閏4月、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を衣川館に襲った。義経の郎党たちは防戦したが、ことごとく討たれ、義経は持仏堂に籠り、妻子を殺害し、自害して果てた。享年31歳だったという。

しかし、頼朝の目的は背後を脅かし続けていた奥州藤原氏の殲滅であり、義経を匿ったことを罪とし、また家人の義経を頼朝の許可なく討伐したことを理由として、同年6月、大軍を以って奥州追討に向かった。平泉軍は宮城県と福島県の県境の阿津賀志山を決戦の地として強固な陣を構え、藤原国衡を総大将として戦ったが敗れた。その後も各所で敗れ、泰衡は平泉に火を放ち北方へ逃れた。

泰衡は、比内の郎党の河田次郎の許に逃れていたが、同年9月に裏切られて殺害された。享年35歳だったとされる。

しかし、義経北行伝説では、鎌倉からの圧力により、義経は泰衡から次第に疎まれるようになり、衣川の戦いの1年前に、平泉には自身の身代わりをたて、平泉を脱出したとする。

宮城県栗原市に残る伝説では、そのときの身代わりが杉目小太郎行信だったと伝えられる。杉目行信は、この地を領していた沼倉小次郎高次の兄で、福島市の杉妻(すぎのめ)城の城主だったと伝えられる。父は信夫の庄司佐藤基治で、ちなみに、義経の忠臣として名高い、佐藤継信・忠信の兄弟ということになる。行信は、義経の母方のいとこにあたり、年や背格好が義経と似ていたという。

行信は義経が平泉を落ちた後、郎党らとともに平泉にあり、藤原泰衡の手勢500に襲撃され自害した。行信の首は黒漆塗りの櫃に収められ、43日間かけて鎌倉に送られ、和田義盛と梶原景時らによって首実検が行われ、藤沢に葬られ祭神として白旗神社に祀られたと云う。胴体は、弟の沼倉小次郎高次らにより密かにこの地に運ばれ、判官森に埋葬されたと伝えられる。

判官森の頂部には、義経の胴塚とされる五輪塔と石碑が建っている。碑中央に「上拝源九郎官者義経公」、左には「文治五年閏四月二八日」、右に「大願成就」と刻まれている。

また判官森の近くの津久毛橋(つくもはし)城跡には杉目太郎供養碑があり、「源祖義経神霊見替」と刻んである。供養碑は、明治期に建てられたものだが、この地には古くから杉目行信が義経の身代わりになって死んだと語り継がれている。

この津久毛橋城は、阿津賀志山の戦いで敗れた平泉勢が一時この地に陣を敷いた。この地には三迫川が流れ、一帯はつくもが生い茂る低湿地帯であり、鎌倉軍はこれを刈り敷きつめて橋代わりとし全軍を渡したと伝えられる。平泉勢は、勢いづく鎌倉の大軍に抗すべくもなく、藤原泰衡は平泉に火をかけて北方へ逃れ、史実につながって行く。

平泉を逃れ出た義経主従は、北行伝説では、平泉から遠野、宮古を抜けて三陸海岸を北上し、八戸にいたり、その後蝦夷地に向かったと伝えられる。

この地の義経伝説は、北行伝説のスタート地点と言うことになる。北行伝説はもちろん史実ではなく、もしかすると東北地方の判官びいきを背景にした創作なのかもしれない。しかし筆者は、平泉から遠野、宮古、三陸沿岸、八戸、青森に続くルートには、モチーフとなった一定の史実があると考えている。またその他にも、下北半島ルート、津軽半島ルートにも、それぞれに別な歴史的モチーフがあると考えているが、それらについては後に稿をゆずることにする。

 

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