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岩手県盛岡市の榊山稲荷社の境内は、朝鮮通信使をめぐる国書改竄の罪により、盛岡に配流された、対馬の外交僧の方長老(本名、規伯玄方(きはくげんぼう))が住んだ庵の跡である。

方長老は南部藩では文化人として厚く遇され、都の文化や茶道や漢文などの指導を受けていた。寛永12年(1635)から23年間盛岡で暮らし、赦免され南禅寺をへて大阪の九昌院で没した。

対馬は、古くから朝鮮半島との交流が多かったが、豊臣秀吉の朝鮮侵攻により、日朝間は国交断絶が続いており、日朝貿易が主な藩の財政であった対馬藩にとっては大きな打撃だった。日朝修好回復を願う対馬の宗氏は、何度も朝鮮に願い国交を回復するべく努めていた。

日本から朝鮮へ渡る者は、限られた者をのぞき、宗氏が発行した渡航証を持参しなければならなかった。江戸時代にはいる前に、すでに宗氏による日朝関係の独占的な体制ができあがっており、このため外交文書に精通した者が必要で、景轍玄蘇(けいてつげんそ)がその役割を一手に握っていた。

玄方は、この対馬の外交僧の玄蘇の弟子として、日朝交流での外交を見て外交技術を学んでいた。江戸時代に入り、家康も善隣外交政策をとり、宗氏の講和路線を支持しており、対馬藩はついに講和にこぎつけ、朝鮮の使者が対馬で講和をはかり、後に朝鮮使者を京都や江戸城へ案内することにも成功した。この時、外交僧の玄蘇につき、いわば外交僧の見習いをしていたのが17歳の玄方だった。

しかし、このときすでに、家康の国書を偽造するという外交が密かに行われていた。

朝鮮王朝は、家康政権との国交の条件として、難問を2つ要求した。1つは、秀吉侵略の時に朝鮮国王の墓を荒らした犯人を捕らえ、朝鮮に引き渡すことで、もう1つは、家康のほうから先に朝鮮国王へ国書を送ることだった。

対馬藩は、最初の課題については、対馬島内にいた罪人2人を、その首謀者にしたてあげ朝鮮に送った。しかし二つ目は難問だった。当時の外交上の慣習としては、先に国書を差し出す行為は、相手方への恭順を意味するものだった。これは徳川幕府が受け入れるはずもなく、対馬藩は幕府に内密に国書を偽造した。

対馬藩は、自らをそのような位置に置くことで、国際上の特殊な地位を獲得していたのである。国交回復を確実なものとするために対馬藩は国書の偽造を行い、朝鮮側もそれらの偽造を黙認し、また同様の偽造も行っていた。徳川幕府と朝鮮国王の対等な関係は、こうした裏方の外交実務があってはじめて成立していた。

日本と朝鮮は、貿易を行うことでは対等の関係だったが、国と国となると、この対等の関係をとどこおりなくすすめていくことは大変なことであった。外交には「貢物」がつきもので、貢物を捧げ持ち、朝鮮王朝に対して、場合によっては臣下の礼もとらなければならなかった。このようなことは朝鮮の政権も日本の政権も出来るわけもなく、古くから対馬の宗氏が間に入ることで、これを調整していた。

対馬藩は、自らをそのような位置に置くことで、国際上の特殊な地位を獲得していたのである。国交回復を確実なものとするために対馬藩は国書の偽造を行い、朝鮮側もそれらの偽造を黙認し、また同様の偽造も行っていた。徳川幕府と朝鮮国王の対等な関係は、こうした裏方の外交実務があってはじめて成立していた。

慶長16年(1611)、玄蘇が没すると、玄方は正外交官になった。しかし玄方はこのとき24歳で僧位も低く、外交上必要な僧位を上げるため対馬藩は玄方を京都に送り、関係者に手を回して、半年で平僧から五山の住持僧にした。

玄方が京都にいっている間、宗氏の江戸詰めの家臣の柳川調興(しげおき)が朝鮮外交に当たっていた。調興は江戸に生まれ、対馬藩の家臣でありながら、家康、秀忠、家光の三代に目をかけられ、土井利勝や林羅山ら幕府の重臣とも近しく、藩主の宗義智へ与えられていた肥前の飛地2千8百石のうち1千石が、家康の直命で柳川氏へ分け与えられた。そのようなこともあり、柳川氏は次第に藩主の宗義成を軽んじるようになったと云う。

このような中、玄方が対馬に戻ると、調興は、自分こそが日朝関係の主役だとして、幕府に対して対馬藩がこれまで国書改竄を行ってきたことを訴え出た。柳川調興には、土井利勝らの後ろ盾があったが、宗氏の側には支持者が少なく、玄方がその矢面に立った。

しかし、日朝貿易を行おうとする上では、結局、宗氏の果たしてきた現実的な役割は大きく、日朝外交における功績も認められることから、結局は喧嘩両成敗として、寛永12年(1635)柳川調興は弘前に、外交僧規伯玄方は盛岡に預けられた。

この事件以降、対馬藩が直接採用していた外交僧の制度は廃止され、国書も幕府が直接作成することになった。しかし面倒な実務においての交渉はやはり対馬藩が行うしかなかった。

盛岡での玄方は、その罪を恥じて、師の玄蘇から送られた「玄」の字を罪人となって汚してしまうのが惜しいとして、盛岡では「無方」あるいは「方」と呼ばせたが、いつしか盛岡では方長老と呼ばれるようになった。

対馬藩の宗氏は、一族の罪を一身に引き受けた玄方の赦免を願い、幕府に嘆願書を送り続け、24年後の明暦4年(1658)にようやく許された。

赦免され盛岡を離れるまでの23年間、方長老は法泉寺門前に庵を結び暮らしていた。あるとき、盛岡藩主の南部重直が病の床に就くと、方長老は「アマドコロ」という草の根で「黄精」という薬を作り、牛の乳を搾ってもらい、それらを持って重直を見舞った。重直はこの薬や牛乳を飲んで病が治ったと云う。

また方長老は、その他にも当時の最先端の諸事を盛岡に広め、味噌、醤油や清酒の醸造技術、アマドコロを原料とした黄精あめなど、経済、生活文化で大きな貢献があり、今も先人、恩人と受け止める市民は多い。