陸前高田市の奇跡の一本松を訪れ、この日は三陸道を走り、青森に抜ける予定だった。すでに三陸沿岸は何度か訪れており、特段の目的はなく、青森までの長い距離を、三陸の海を眺めながら、のんびりと走った。
宮古以北の三陸道沿いには、義経北行伝説が点在している。すでにその殆どは歩きつくしていたが、特に目的のない長い青森までの道中で、伝説と史実との間にあるものを考えながらの旅になった。
義経北行伝説には、私は3つのモチーフがあると考えている。三陸沿岸から八戸市、青森市に抜けるルートはそのメインともいえるものだ。
みちのくの地は、平泉滅亡後にすんなりと鎌倉時代に移っていったわけではない。源頼朝は奥州各地に東国武士を地頭職として配し、奥州藤原氏武士団の土地を没収していった。これに対し、出羽の大河兼任は兵を起こし、兼任軍は津軽から陸奥中央部に進み平泉を制圧し、さらに現在の宮城県栗原市まで進み鎌倉勢と激突したが壊滅的打撃を受け敗走した。
大河兼任はその後も各地を転戦したようだが、付き従った武将たちも、次第に四散して行ったのだろう。大河兼任は、鎌倉を撹乱するためだろう、源義経を名乗り、また、源義仲の嫡男の、朝日冠者義高を称したようだ。
三陸沿いに残る義経北行伝説は、この大河兼任自身や、その武将たちが、各所を転戦しながら津軽に向かっていったことからのものではなかったか。その途中、ある者は、そのまま各地に隠れ住み、またある者は、蝦夷地へ渡り、また、抵抗の拠点をつくろうとした者もいただろう。それらの史実が、三陸海岸沿いに点々と残ったのではと思われる。
しかし、このルートは、兼任勢の最後の抵抗の地とされる、青森市浅虫の善知鳥崎古戦場跡で一旦途切れる。
現在、三陸沿岸の国道45号線はきれいに整備され、海岸を臨みながら快適なドライブを楽しむことができる。しかし、北三陸は、深い谷が海に入り込むリアス式海岸で、かつては急峻なアップダウンの道が続き、災害時には周辺部と隔絶され「陸の孤島」とも呼ばれていた地だ。そのような地を、平泉の残党たちは北へ向かったのだろう。そのような思いを巡らしながら、時折、展望所などにより美しい海岸を眺めながらの青森への長い旅路は贅沢なものだった。
夕暮れ時に、北三陸の絶景の地である北山崎に着き、薄暗くなる中で、撮影し、久慈に入り、夜道を青森に向かった。