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かつては会津を中心に強大な勢力を誇っていた葦名家の墓所が、秋田県仙北市にある。

葦名氏は、相模の豪族三浦義明の子佐原義連がその祖とされる。三浦氏は治承4年(1180)の石橋山の合戦には頼朝を助け、その後の平家追討、奥州攻めにも参陣し、それらの戦功により佐原義連は会津、河沼、耶麻の諸郡を与えられた。

しかし「和田の乱」や「宝治合戦」において宗家三浦氏は滅亡した。この一連の争乱のなかで、三浦佐原氏は北条氏に与し没落をまぬがれ、三浦宗家の名跡は、佐原盛連の子盛時によって再興された。

盛連の四男の光盛が惣領となり、相模の葦名にちなんで、葦名氏を名乗るようになった。南北朝期、葦名直盛のときに会津に下向、その後、現在の会津若松城の地に館をつくり本拠とした。

南北朝期には、葦名氏は北朝方として、吉良軍の一員として参加し、会津四郡内で、会津守護職としての地位を確立していった。しかし南北朝期以降は、庶子家が台頭し国人領主化し、葦名氏は外敵と戦って領土拡大をするとともに、一族との勢力争いにも奔走しなければならなかった。

天文年間(1532~55)、一族間の争いがほぼ収まった葦名盛舜の時代には、京都将軍家の足利義晴に、太刀や黄金、大鷹を贈るなど、対外的にも南奥の一勢力としての地位を確立していった。盛舜の跡を継いだ盛氏は、「列祖に劣らず弓矢にすぐれていた」とあり、葦名氏は名実ともに戦国大名に成長していた。

葦名盛氏は、猪苗代氏と戦い、ついで、山内氏、長沼氏と戦い、会津盆地における反対勢力を制圧し、支配下に掌握していった。またこの時期、伊達氏の内訌である「天文の乱」が起き、盛氏は伊達晴宗に味方し、安積郡に、出羽国長井に、最上領にと兵を出した。これらは伊達晴宗を助けて兵を送ったものだが、その中で二本松の畠山義継、須賀川の二階堂盛義、三春の田村清顕などの諸将を片っ端から斬り従えて支配下に組み込んでいった。

一方、伊達、結城家とは婚姻政策をとり、相馬盛胤とは親子の交わりを結び、さらに遠方の北条氏康、武田信玄、上杉謙信らとは同盟を結び、この盛氏のときに、葦名氏の版図は最大となり全盛を誇った。

盛氏の跡は嫡子の盛興が継いだが、その盛興は盛氏に先だち若死してしまった。盛氏は二階堂氏から人質にきていた盛隆を未亡人の正室の伊達輝宗の妹の伊達御前と結婚させ当主にすえた。

しかし、盛氏の没後、家中には、若年で人質から葦名氏の当主になった盛隆に対する反感も多く、またそれまでの相次ぐ外征によってもたらされた過重な負担に対する不満もあり、反乱が起き、その反乱を鎮圧して間もなく、盛隆は近習により黒川城内で殺害された。盛隆のあとは、その前月に生まれたばかりの亀若丸が嗣ぐことになった。

この時期、米沢を本拠としていた伊達政宗は、天文の乱以降の失地回復をねらい、田村氏と結び仙道地域への進出を計っていた。天正13年(1585)、政宗は檜原に出兵するなど小競り合いも起き、葦名氏と伊達氏との緊張は、伊達、田村連合に対して反伊達連合として、葦名、白河、石川、二階堂、佐竹、岩城、相馬、最上の連合関係が形成されていった。

この反伊達連合軍と伊達軍は、安達郡本宮の人取橋付近で激突した。伊達勢が8千に対し連合軍は3万余の軍勢だったが、伊達勢は不利な状況で戦う中で、連合軍の盟主的な立場だった佐竹氏が、国元の不穏から兵を退き政宗の不戦勝というかたちに終わった。このことで、南奥の小勢力は、伊達氏により各個撃破、あるいは伊達氏の傘下に入っていき、南奥における伊達氏の勢力は拡大して行った。

しかし葦名家は、幼い当主の亀若丸は3歳で死去し、葦名氏嫡流の男系は絶えた。葦名家中では、亀王丸の跡に佐竹義重の二男義広を迎えようとする者と、伊達政宗の弟竺丸を迎えようとする者で家臣団の意見は対立した。結局、佐竹派が家中を押さえ、13歳の佐竹義広が嗣子として迎えられて当主となった。

義広の入嗣によって葦名氏と佐竹氏の同盟関係は確固たるものとなったが、家中では伊達派と佐竹派が対立し葦名家中は混乱した。

そして、天正17年(1589)5月、伊達氏は、猪苗代盛国を調略し猪苗代城に入った。須賀川に陣を敷いていた葦名義広は、この報を受けて須賀川から軍を黒川城に引き返し、すぐに猪苗代方面に向けて出陣した。

葦名、佐竹勢は総勢1万6千余騎、伊達勢は総勢2万3千余騎で、緒戦では葦名勢が優勢だったが、葦名勢の内紛の疑心暗鬼から、敵の出現を味方の謀叛かと誤認するなど、葦名軍は浮き足だち、伊達勢の一斉攻撃の前に本陣の佐竹勢の力戦もついに敗勢を覆すことは出来ず、葦名勢は潰滅し、葦名義広は黒川城を落ち、実家の佐竹氏を頼り逃げ落ちた。

その後、豊臣秀吉の奥州仕置で、伊達氏の南奥支配は崩れ、伊達氏は宮城県の大崎に去ったが、葦名氏は旧領に復することはできず、常陸に4万5千石を与えられた。しかし、それも関ヶ原の戦いでは実兄の佐竹義宣は西軍に与したものとされ、葦名氏は所領を没収され、慶長7年(1602)佐竹氏とともに秋田に移った。

葦名氏は佐竹氏の一族として、仙北郡角館に1万6千石を得たが、葦名氏には不幸が続いた。義広の嫡男の盛泰は、跡継ぎに恵まれなかった佐竹義宣の後継者とも目されていたが、父の義広に先立ち21歳で病死した。そして嘉永8年(1631)、義広が56歳で没したとき葦名家は断絶の危機に直面したが、義広没後4ヶ月して義広の側室の安昌院に男子盛俊が誕生して後継を認められ断絶を免れた。

しかしその盛俊も慶安4年(1651)、20才で病死、その嫡子の千鶴丸が1歳で跡を継ぐが、3歳でちょっとした事故で没し、ついに佐原十郎以来の名家で、会津に強大な勢力を築いた葦名氏は断絶した。


角館城城山の中腹に、七色稲荷が祀られている。葦名家には代々狐にまつわる伝説があり、葦名家に不幸が起こるたびにこの狐伝説が取りざたされ、家中を不安に陥れていた。

かつて、那須野に九尾の狐が住み着き、婦女子をさらうなど悪事を重ねていた。那須の領主は朝廷にこの九尾の狐の退治を願い出た。この九尾の狐は、かつて鳥羽院のそばに仕え、鳥羽院を殺そうとして陰陽師の阿部泰成との対決に破れ逃げた「玉藻の前」だった。

玉藻前は、その美貌と博識から鳥羽上皇に寵愛されていた。しかし、上皇は次第に病に伏せるようになり、朝廷の医師にも原因が分からなかった。陰陽師・安倍泰成は、上皇の病は玉藻前の仕業と見抜き、真言を唱えた事で玉藻前は九尾の狐の姿になり宮中を脱走し、行方を眩ました。その後、那須野で、婦女子をさらうなどの行為が宮中へ伝わり、鳥羽上皇は那須野領主らの要請に応え、討伐軍を編成。三浦義明、千葉常胤、上総広常を将軍に、陰陽師・安部泰成を軍師に任命し、軍勢を那須野へと派遣した。

那須野で、九尾の狐を発見した討伐軍はすぐさま攻撃を仕掛けたが、九尾の狐の妖術などによって多くの戦力を失い、失敗に終わった。そこで、三浦義明らは、犬の尾を狐に見立てた犬追物で騎射を訓練し、目的物に必ず命中し刺さったら抜けない矢を得て、再び攻撃を開始した。対策が効を奏し、討伐軍は次第に九尾の狐を追い込んでいった。そして三浦義明が放った二つの矢が脇腹と首筋を貫き、上総広常が長刀で斬りつけ、ついに九尾の狐は息絶えた。

その後、九尾の狐は巨大な毒石に変化し、近づく人間や動物等の命を奪うようになった。そのため村人はこの毒石を『殺生石』と名付けた。この殺生石は鳥羽上皇の死後も存在し、周囲の村人たちを恐れさせた。鎮魂のためにやって来た多くの高僧ですら、その毒気に次々と倒れたが、南北朝時代、会津の示現寺を開いた玄翁和尚が殺生石を破壊し、破壊された殺生石は各地へと飛散したといわれる。

三浦義明は、この功績により大名にとりたてられたが、その祟りが代々不幸をもたらすと云われ、葦名義広は角館に移ってからも城山中腹にこの稲荷神社を建立した。九尾の狐の祟りかどうかはわからないが、葦名氏は義広から三代目の葦名千鶴丸の死により嗣子がなく断絶した。