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福島県大玉村の遠藤ヶ滝は、不動尊が祀られた堂の脇から、杉田川渓谷の遊歩道を約30分登ったところにある。この滝は、昔、文覚上人(遠藤盛遠)が深山霊谷で滝に打たれ荒行を修めた場所といわれている。遠藤ヶ滝不動尊は山岳修行道場となり多くの修験者が訪れた。滝への途中には女人堂碑が建てられており、昔はその先に女性が足を踏み入れる事は禁じられていた。

遠藤盛遠は、摂津源氏傘下の武士団である渡辺党遠藤氏の流れで、俗名を遠藤盛遠といい、北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王に仕えていたが19才で出家した。この出家した理由はこの地では次のように伝えられる。

承安(1171~74)の頃、遠藤時遠の息子に盛遠という若武者がいた。盛遠には、源渡(みなもとわたる)という親友がおり、渡の妻は、袈裟御前(けさごぜん)と呼ばれる絶世の美女だった。

盛遠は渡の家を度々訪れるうちに、袈裟御前に思いを寄せるようになり、ついにその思いを袈裟御前に打ち明けた。袈裟御前は、夫を思い、また盛遠の思いに一人悩んだ。袈裟御前は、自身の存在が罪深いものという思いにいたり、盛遠は、袈裟御前への思いの強さから、渡がこの世にいなければという思いを抱くようになった。

ある時、袈裟御前は、訪ねてきた盛遠に「夫は今夜、酒に酔って高殿で寝ている」と語りかけた。それを聞いた盛遠は、自分の思いが通じたものと思い、夜陰に紛れて寝所に忍び込み、一刀の下に首を斬り落とした。ところが、その首は、夫の身代わりとなった袈裟御前のものだった。

盛遠は悲しみのあまり俗世を捨て、仏門に入り修行の道に救いを求めた。名を文覚と改め、熊野権現に誓い、那智滝で千日間の荒行を修め、山伏となって全国の霊地を巡歴した。

文覚はやがて陸奥にやってきて、杉田川を渡ろうとした時、川面に尊い梵字が浮かんだのを見て、上流に不動明王がいる事を悟り、深く渓谷に分け入り、この滝の傍らの石室に篭り荒行を修めた。以来この滝は、遠藤ヶ滝と呼ばれるようになったと云う。


文覚は、仁安3年(1168)都に戻り、空海に始まる高雄山神護寺に参詣するが、この寺が荒れ果てていることを嘆き、再興の勧進を始め、その再興を後白河天皇に強訴したため、渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆に配流された。

文覚は伊豆で、同じ配流の身だった源頼朝を訪ね、頼朝の亡父、源義朝の髑髏を示して、平家打倒をうながしたとする話は有名である。行動力はあるが、粗野で、学識はないが、大口をたたき巻き込むような才はあったようだ。配流地の伊豆から福原京の藤原光能のもとへ赴き、後白河法皇に平氏追討の院宣を出させるように迫り、頼朝にわずか8日で院宣をもたらした。源頼朝は、このようなことから、文覚を重く用いるようになったようで、木曽義仲に対し、平氏追討の懈怠や京中での乱暴などを糾問させたと言う。

頼朝が征夷大将軍として存命中は、幕府側の要人として、また神護寺の中興の祖として大きな影響力を持っていたようだ。しかし敵も多かったようで、建久10年(1199)頼朝が死去すると、将軍家や天皇家の政争に連座して佐渡へ配流された。建仁2年(1202)に許されて京に戻るが、翌建仁3年(1203)、後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬国へ流罪となる途中、鎮西で客死した。

宮城県大崎市の松山城(千石城)には、その築城主として遠藤盛遠の名が伝えられている。盛遠は文覚として外交面で頼朝を支え、鎌倉幕府草創期に、宮城県の大崎市に領地を得たようだ。

文覚の死後、残された一族は松山城の地に下向し隠れ住んだのかもしれない。盛遠(文覚)の流れは継続し、十一代盛継が、志田、玉造、加美の三郡奉行として任ぜられ松山に居住したとされ、その後、戦国期には伊達氏に臣従していたようだが、詳細は定かではない。