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源頼朝の落胤の忠頼の子の忠明は、忠頼の死後、母方の刈田平右衛門に養育され、15歳のときの建歴2年(1212)に奥州和賀郡へ下向し、二子に城を建て、和賀氏となった。その後、鎌倉期・南北朝期・室町初期にかけて、毒沢氏・春山氏・成島氏・関口氏らが分派し、戦国期に向かっていくことになる。

南北朝時代の奥羽の北朝方勢力は、吉良・畠山・石塔・大崎の武家方四探題が並び立ち、次第に大崎氏の単一支配に移行していった。そして、大崎氏は大崎探題あるいは大崎御所と称されて威勢を誇るようになった。そして、これと並ぶ南朝方の存在として葛西氏が勢力を拡大しており、また北奥羽には南部氏がいた。

この時期の和賀氏は、庶流の和賀教義は南朝方に属し、建武2年(1334)に陸奥国司北畠顕家から和賀郡新堰を宛て行われているが、嫡流は武家方に属していたようで、暦応3年(1340)には、有力な一族・鬼柳氏らと共に南朝方に属した同族の須々孫氏らを攻めるなど、南朝・北朝側に一族が別れて戦ったようだ。

明徳3年(1392)に、南北朝が合一されたが、三戸の南部政光は、鎌倉府に帰順せず不穏な動きを示していた疑いで、関東管領の執事渋谷満頼は鬼柳氏に南部追討を指示した。このとき、和賀時義は和賀一族の惣領権と和賀郡一円の支配権を認める辞令を得た。この時期に、一族間で総領権を巡り内訌があったようで、和賀氏の家系は混乱している。

この時期は、和賀氏の南には葛西氏や大崎氏が勢力を拡大しつつあり、北には南部氏が急速に勢力を拡大しつつあった。その挾間の和賀氏は南北朝期以来の混乱から総領権を確立できずにいた。永享7年(1435)5月、和賀惣領家と一族の須々孫氏や黒沢尻氏らとの確執が表面化し、近隣へ波及し和賀の大乱となった。

須々孫氏らは稗貫氏を頼み、和賀義篤が守る飯豊城を落した。義篤は南部義政に応援を頼み、義政はこれに応じ、3万近い大軍を擁して、稗貫郡寺林城まで出陣、大合戦となった。この時、南部氏はこれを好機とし葛西氏や大崎氏も引き込み、和賀氏一族を一挙に全滅させる構えをとり二子城を囲んだ。和賀義篤は驚き動顛したが、こうなっては和賀氏に勝ち目はなく、加美郡や志田郡、栗原郡方面にあった飛地領を手離すことを条件に本領を安堵された。また、一方の稗貫氏は、南部氏の幕下になることを条件に和睦し、和賀氏とともに本領を安堵された。

その後も、和賀氏は一族の鬼柳氏や葛西氏らと小競り合いを起こしていたようで、戦国期にかけて、鬼柳・黒沢尻氏・須々孫氏らの一族をはじめとする和賀郡内諸氏の統制に苦しんだ。応仁元年(1467)の応仁の乱が勃発すると、奥州も戦国時代の様相を呈し、和賀氏は金ヶ崎で江刺氏と、胆沢郡で葛西氏と戦った。文明8年(1476)には、和賀氏と柏山氏との間で紛争がおこり、胆沢・江刺・稗貫は戦乱に巻き込まれ、和賀郡にも戦乱が波及し、戦いが繰り返されるようになった。

このような中でも、和賀氏は奥州の大名格の一人として京都の幕府に大番として上洛勤番していたようで、そのようなこともあり、和賀氏は和賀郡の領主として奥州の一角で相応の勢力を保持していたようだ。

この時期の奥州は、北奥に南部氏、南奥に伊達氏、その中間に大崎氏、葛西氏らが割拠して、それぞれ勢力拡大に鎬をけずっていた。なかでも南部氏は勢力を南に広げつつあり、南部氏と境を接する和賀氏、江刺氏、斯波氏らは戦々兢々たるものがあった。

南部氏は、これまで斯波氏を助け、胆沢・江刺・稗貫・和賀郡内の争いを調停し納めていたが、この時期には、南部氏は斯波氏や和賀氏に対して直接手を伸ばしている。永禄9年(1566)、和賀氏は柏山氏・江刺氏の重臣らと江刺郡国見山で談合した。その内容については伝わっていないが、ただならない天下の情勢の中での、南部氏への対応などを話し合ったのだろう。

この時期、中央の情勢は天下統一へと大きく前進をしており、戦乱は続いているとはいえ、日本はだんだんと一つの方向づけがなされようとしていた。しかし、奥州では葛西氏が内乱に苦しみ、大崎氏も内紛によって次第に衰退し、伊達氏が大きく台頭、南部氏も勢力を拡大しつつあった。和賀氏・江刺氏・柏山氏らも時代の変転に対して大きな決断を迫られつつあったが、この地域で小競り合いがやむことはなかった。

天正18年(1590)、豊臣秀吉は小田原征伐の軍を起こした。関東・奥羽の小・大名たちは、続々と小田原に参陣した。しかし、和賀義忠は小田原に参陣せず、柏山氏や江刺氏らとともに所領没収、城地追放となり、皮肉にもこの地の争乱は収まることになる。それは葛西晴信・大崎義隆・稗貫秀忠らも同様であり、時代の変革に対する感度が鈍かったというしかない。ここに源頼朝長子千鶴丸伝説を伝える名門和賀氏の運命は決した。

大名としての和賀氏は滅亡するが、秋田県の美郷町の本郷氏は和賀氏の庶流であり源頼朝の長子の千鶴丸(和賀忠頼)を祖とする。忠頼の三男の忠朝が出羽本堂に進出して本堂氏の祖になったとする。

角館を本拠とする戸沢氏と姻戚関係を結んだりしながら、安東氏や小野寺氏、戸沢氏の諸勢力に組み入れられることなく、本堂城を本拠として一帯を支配する小大名として独立を保った。

本堂城は、斉無川の南岸に築かれており、やや南北に長い方形の平城である。城は内館を囲む内堀と土塁、外館を囲む外堀などから構成され、内館の北東部分には高さ約4mの土塁の一部が残っている。内館の規模は、内堀部分も含め、東西約170m、南北約190m、中心部からは主殿と考えられる建物跡が見つかっている。周囲を取り巻く内堀の幅は約10m程あり、北を除く三方に虎口を開き、南が大手口である。また東から南側の水田下に、外堀の一部が確認されている。

現在も内堀内部は良い状態で残っており、北東隅に大土塁が残っている。高さは約4mあり、内館の周囲を巡っていたと思われる。北東隅部には鬼門除けの祠が残っている。

本堂忠親は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、元本堂、黒沢などの11か村、8,983石余の本領が安堵され、江戸時代になっても、8千石の大身旗本として明治まで続いた。