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現在の秋田大学の東側、手形の地に秋田久保田藩初代藩主佐竹義宣の正室の菩提寺である正洞院跡と、正洞院の墓があり、次のような話が伝えられている。

昔、戦国時代に那須与一の子孫、那須資胤に美しい姫がいた。この姫は佐竹義宣のもとに嫁いだ。義宣は次第に弓や剣の稽古をおろそかにするようになり、姫は軟弱に流れる義宣を思い心を痛め自害してしまった。義宣は悲しみ、それ以後弓矢の道に励み名君となったという。

この話の佐竹義宣の正室は正洞院で、下野国烏山城主の那須資胤の三女で、天正13年(1585)、19歳の時に16歳の義宣のもとに輿入れした。この当時の佐竹家当主は、鬼義重の異名を持つ佐竹義重で、南に後北条氏と戦い、北に結城白河氏や伊達氏と争い、南奥にも勢力を拡大していた。このような中での婚姻は、佐竹氏と那須氏の同盟であったことは言うまでもない。

しかし、南奥で次第に勢力を拡大する伊達政宗との争いでは結果として敗れ、また天正17年(1589)には、葦名氏に養子に出した実子の葦名義広は、摺上原の戦いにおいて伊達氏に大敗を喫し、白河結城氏、石川氏といった陸奥南部の諸大名は伊達氏に降った。これにより佐竹氏は南から後北条氏、北からは伊達氏の二大勢力に挟まれ、滅亡の危機に立たされた。

この時期、豊臣秀吉の天下統一の動きの中で、天下は大きく変動していた。義重、義宣は、この佐竹氏の危機の時期に豊臣秀吉に従うことで、危機を乗り切ろうとした。義重は、葦名氏問題の裁定を豊臣秀吉のもとに依頼し、秀吉は伊達政宗に兵を収めるように命じたが政宗は従わず、北条氏直と結び南下を続け、佐竹氏の南奥の領地はつぎつぎと政宗に攻略された。

天正18年(1590)3月、秀吉は小田原北条氏、奥州の伊達氏など関東・東北の諸勢力を征伐するため京より軍を発した。この時期佐竹氏は、伊達氏と対峙していたため小田原への参陣は容易ではなかった。しかし、石田三成の仲介で、一族や常陸の諸豪族らとともに、莫大な進物を携えて秀吉のもとへ伺候し、小田原に参陣することができた。一方、 正洞院の実家の那須氏は、古くから、小田原北条氏と結び勢力の維持を図ってきており、小田原北条氏の働きかけもあり、参陣を見合わせた。

この年に正洞院は自殺した。正洞院は24歳、佐竹義宣は21歳だった。正洞院の自殺の理由は、「文弱に流れた義宣を諌め自害した」とも伝えられているが定かではない。

佐竹義宣は、後年、移封先の秋田にも正洞院の菩提寺を建てていることなどから、義宣が16歳の時に妻とした正洞院に対しては特別な思いを持っていたと思われる。義宣よりも3歳年長な正洞院も、義宣を一家の家父長的な存在というよりも、弟のように見つめ、愛情を注いでいたのかもしれない。

この当時の佐竹氏の当主は義宣であったが、父の義重は健在であり、実質的には義重が一族を束ねていたのだろう。義宣は思慮深く「律儀」な性格だったようで、父義重や、一族重臣の意見を十分に取り入れていたのだろう。しかしそれは、豊臣秀吉の小田原征伐では、秀吉への臣従を意味するものだった。

義宣と正洞院は政略結婚であり、互いにその背景には佐竹氏と那須氏の、戦国時代終末期の両家の浮沈がかかっていた。正洞院実家の那須氏は、那須与一以来の名家であり、佐竹氏も新羅三郎義光以来の名家である。それだけに、農民あがりの豊臣秀吉に臣従することには、それなりのためらいがあっただろう。しかし南奥の戦いでは、結果的に伊達氏に敗れた佐竹氏は、冷静に情勢を把握し、佐竹家を存続させるための最善の策として、秀吉に臣従することを決めたのだろう。

このとき21歳の義宣にとってはこの決定は重過ぎるものだったと考えられ、その決定は、恐らくは佐竹氏重臣や父の佐竹義重が決めたのだろう。この決定は、正洞院にとっては、実家の那須氏の意向とは異なり、場合によっては佐竹氏と那須氏が戦うことにもなりかねないことだった。そしてそれは、思慮深く律儀な夫義宣を「文弱」故と考えたのかもしれない。

結果として那須氏は秀吉の呼びかけには応じず、小田原北条氏方に出陣することもなく、ついに動かなかった。小田原城は開城し、北条氏政は切腹して果て、小田原北条氏は滅亡し、那須氏は所領は没収され改易となった。一方佐竹氏は豊臣秀吉に臣従し常陸国と下野国の一部も安堵され 、石田三成や上杉景勝とも親交を持ち、徳川氏や前田氏、島津氏、毛利氏、上杉氏と並んで、「豊臣政権の六大将」と呼ばれるようになった。

正洞院が、実家の那須氏が、豊臣秀吉に臣従しなかったことを、名族の誇りを持って佐竹氏の中で支えようとしたのは、戦国の女性としては当然の事であり、その感覚からは夫の義宣が、義父の義重らの秀吉に従うような方針をとることは、不甲斐ないものと思えたのだろう。しかし、常に修羅の中に身を置いてきた、義重や重臣らの立ち位置と、常に名家の誇りと周囲の愛情の中に身を置いていた正洞院の立ち位置が大きく異なることはやむを得ないことだったろう。 結局正洞院は、現実を受け入れることができずに、名家の誇りに殉じた。

結果として、佐竹氏の選択は正しく、豊臣政権の中で、石田三成や上杉景勝らと並ぶ存在となった。しかしそのことが、その後の関ヶ原合戦への対応が悩ましいものになり、小田原征伐の際の那須家と同じように、中立的な立場をとり、秋田への減移封となった。

秋田へ移った佐竹義宣は、夫人の墓を常陸太田から秋田に遷し、江戸と久保田の両地に菩提寺の正洞院を建立し、夫人の霊を丁重に弔い追悼供養をしたと伝えられる。