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山形県長井市の伊佐沢には、久保桜と呼ばれる桜の古木が、今も春には美しい花を咲かせる。
久保桜はエドヒガンの巨木で、お玉桜、四反桜などとも呼ばれ、古くから、伝説とともに、この地の人々に大事にされてきた。樹高は16m、幹周は9m、根元は大きく裂け、空洞になっている。推定樹齢は450年。天保・弘化のころは枝が40アールを覆っていたので四反桜と呼ばれ、花時には米沢藩主が来観し、樹下10アール余りの土地は、明治維新まで免税地であったと云う。

しかし幕末の頃、物乞いをしながら旅をしていた者が、桜の根元の洞に宿り炊事をしたところ、火は朽ちた部分を燃やし、そのため、大枝2本、その他の枝が枯れ、樹形が一変してしまった。その後、この地の人々は残った枝に支柱を立て、柵をめぐらして桜の保護を続け、現在では60本余の支柱が久保桜を支えている。

この桜には、次のような伝説が伝えられる。
延歴16年(797)、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征討のために奥羽に兵を進め、この地に来た際に、この地の豪族久保氏の娘のお玉が将軍の世話をした。二人はやがて恋仲になったが、将軍は京へ戻らなければならなかった。将軍が帰国すると、お玉は追慕の思いに嘆き悲しみ、翌年ついに病没した。将軍は この知らせに接し、一株の桜をお玉の墓に手植えして、その墓標としたと云う。

また次のようにも伝える。
久保桜は、この地を領していた桑島将監の妻のお玉とその子の供養のために植えられたものとも云う。

桑島将監は、伊達氏の家臣で、この伊佐沢周辺を治め、天文の乱の際には伊達晴宗側についたと考えられる。また馬医としても伊達氏内で評判が高かったようで、伊達氏が将軍家に金や馬を献上するために都へ運んだ際に、桑島家はその馬の世話をしたりした。

将監の妻のお玉は、この地の豪族の渋谷氏の娘で、その秀でた美しさは近隣でも評判だった。しかしお玉は、永禄13年(1569)に若くして亡くなった。将監は、妻のお玉と息子新太郎の菩提を弔い、玉林寺を建立し、遺品を埋めて桜の木を植えたという。もしかすると、お玉が亡くなったのは、出産時のことだったのかもしれない。

供養の久保桜を植えたとき、飾壇を築き、香を供し、数十人の出家を招き、幾百の人をあつめ餉を供し酒をすゝめ、塔堂供養の如くだったとも伝えられる。

桑島氏は、その功により千石を給わっていたが、お玉が亡くなった後に、後室をめとることもなく、桑島氏を継ぐ者もなく、伊達氏の岩出山への移封にも従わず、出家して高野山へ入ったという。