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この戸建沢神社には、祭神として藤原頼秀が祀られており、また炭焼き藤太の伝説が伝えられている。炭焼き藤太の伝説は、東北地方各所に伝えられているが、その多くは、炭焼き藤太は、平泉に源義経を連れてきたとされる金売吉次の父親というもの。しかし、この地の伝説は、その時期は平泉滅亡後の十三氏に関わるもので、他の炭焼き藤太伝説とは時代背景がかなり異なる。

十三氏は、平泉滅亡後も生き残った藤原氏の流れで、鎌倉時代になってからも十三湊の地域を支配していた。しかし藤崎城を拠点とした安東氏が勢力を増し、十三藤原氏と藤崎安東氏の間で、「萩野台の合戦」が行われた。戦いは藤崎安東氏が勝利し、藤原秀直は討ち死に、一族は蝦夷へ流罪となった。しかし、秀直の子の頼秀は、乳母に連れられて鶴ヶ坂に逃れ、「炭焼き藤太」としてくらしていた。

あるときこの地に、京の右大臣の姫の福姫が、乱世を避けて下女とふたり、ひそかに津軽にのがれて来た。姫は容姿にあまりめぐまれなかったが、浪岡の美人川で顔を洗うと、見違える程に美しくなった。藤太はこの姫の放浪するさまをあわれみ、なにかと世話をしていた。

あるとき姫は、藤太の貧しい暮らしを見かねて、袋から黄金一枚を取り出して藤太に与えた。すると藤太は笑って、そんなものなら、このあたりにいくらでもあるという。藤太は姫によりはじめて黄金の価値を知り、それを売りさばきたちまち長者になった。

藤太は福姫と夫婦になり、のちに「藤原頼秀」を名乗るようになった。その七代後が弘前藩の祖となった大浦光信だという伝説もある。

この戸建沢の地は、元は金沢と呼ばれ、砂金が採集されたと云う。また姫がこの地を立ち去るときに、大切にしていた金の鶏を穴の中に置き、岩戸を建てて行ったことから、この地は戸建沢と呼ばれるようになった。
その後、村人がよくここで金鶏が時を告げるのを聞いたといい、弘前のある石屋がこの話を聞き、金鶏を掘り出そうとその岩戸にノミを当てたが、刃が立たずに諦めたと伝えられる。


この中の美人川の伝説は、次のようなものである。

平安時代の終わり頃、京都の近衛関白家に、大変器量の悪い福姫という姫がいた。輿入れの機会に恵まれず、両親はことのほか心配していた。

あるとき、両親は姫の良縁を願って清水観音へ願掛けに行ったところ、ある日不思議なお告げがあった。それは「津軽の外ヶ浜で炭焼きをしている藤太のところへ嫁ぎなさい」というものであった。

両親からこのことを聞いた福姫は、意を決して津軽へと旅立った。はるばると津軽へ足を踏み入れたこの地で、福姫はまだ見ぬ自分の夫に会えるのかと思い、身なりを整え、かたわらの川の流れで顔を洗った。そして、そこで拾った杉の葉を楊枝にしてお歯黒をつけようと、ふところから取り出した鏡を見た。すると驚いたことに、それまでの醜い顔とはうってかわった世にも美しい娘の顔があった。世にも稀な美人となった福姫は、やがて出あった藤太という炭焼きの若者と結ばれた。

藤太は、藤原一族の流れをくむ名門の出であったが、外ヶ浜に落ちのびて炭焼きをしながら身をひそめていたのだった。藤太に嫁いだ福姫は、献身的に夫に尽くし、藤太の家は、津軽地方の有力な豪族となった。

その後、姫が顔を洗った川は「美人川」と呼ばれるようになり、またお歯黒をつけた楊枝の葉はいつしか根付き、巨大な大木に生長し「楊枝杉」と呼ばれるようになったと伝えられる。


この津軽の伝説では、炭焼き藤太は、平泉藤原氏につながる、萩野台の合戦で滅びた十三藤原氏であり、それは、安東氏や南部氏を排除し津軽を統一した津軽氏の出自に結びついていく。また美人川伝説の福姫の出自は京都の近衛関白家で、津軽為信は、近衛家は津軽氏の遠い祖先であるとして盛んに外交で利用している。また、藤崎町に伝えられる唐糸伝説の唐糸が美人川伝説の福姫だと伝えているものもある。

これらの伝説は、津軽を統一した津軽氏が、南部氏や北畠氏、安東氏に対抗するために、その支配の正当性を強調するために利用したものと思われる。