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浜通りを北上する新政府軍は、7月13日に平城を攻略し、諸所で抵抗する仙台藩兵、相馬藩兵を撃破しながら列藩同盟軍を猛追した。相馬藩兵は善戦していたが、7月28日頃には相馬藩は新政府軍に寝返るとの情報が入り、仙台藩兵は相馬への備えもしながらの撤退になった。

8月1日、仙台藩兵は一旦相馬中村城に入ったが、相馬中村藩の寝返りを恐れ、駒ヶ嶺城に本営を置き約2000の兵が入り守りを固めた。 また、相馬中村城の北西にある標高260mの旗巻峠にも1200の兵を配置し、中村城北西2kmの黒木にも一部兵力を集結させた。

しかし相馬中村藩の降伏と新政府軍入城は迅速であった。相馬中村藩は、6日の仙台藩からの使者にたいしては同盟側に留まることを確約したが、実際には4日には新政府軍に降伏の使者を送っていた。そして7日には、新政府軍は降伏したばかりの相馬中村藩に、黒木の攻撃を命じた。

黒木の仙台藩兵は、一時は相馬中村藩の攻撃を撃退したが、新政府軍は、中村城から長州藩と徴兵隊の新手を繰り出し、仙台藩兵は支えきれず壊走した。新政府軍は確保した黒木に陣を置き、福岡藩と相馬中村藩兵が駒ヶ嶺の南麓に前進した。仙台藩兵は駒ヶ嶺を駆け下り、これを撃退したが、新政府軍の増援部隊が表れ、仙台藩兵は周囲の民家に火を放ちながら退却した。10日には、旗巻峠の仙台藩兵が出撃し、新政府軍を撹乱したが撃退された。

翌日の11日、新政府軍は駒ヶ嶺の攻略に乗り出した。駒ヶ嶺に砲撃可能な椎木の高台へ各藩の砲兵を集結させ、正面からは長州藩、熊本藩が、海岸沿いには福岡藩、鳥取藩、駒ヶ嶺西には徴兵隊と久留米藩を配し、それぞれに相馬中村藩を先導役として先陣に置き、三方から攻めあがる戦略を立てていた。

その日の午前6時、新政府軍は駒ヶ嶺城に向けて一斉に砲撃を開始、砲撃は命中精度が高く、関門の左大門、右大門とも瞬く間に打ち破られた。仙台藩も駒ヶ嶺北の高台から砲撃を返すが、駒ヶ嶺の砲の数は少なく、多くの仙台藩兵は塹壕に身を隠すしかなかった。

海岸線に沿って北上していた福岡藩と鳥取藩は、沼地に足を取られ進軍に手間取っているところを、今泉方面からの仙台藩の反撃を受け、一旦原釜へと引き上げた。駒ヶ嶺西側を進んでいた久留米藩と徴兵隊は、砲撃とともに菅谷に向けて攻めあがったが、これを迎え撃つ仙台藩兵によって進撃を阻まれ、これに対し津藩と相馬中村藩兵が救援に向かったが、それでも仙台藩兵は頑強に抵抗し、この方面の新政府軍は足止めを余儀なくされた。

正面から攻めあがった長州藩は、仙台藩の守りが手薄な曹善堂と駒ヶ嶺の間の高台に向けて攻勢を開始し、長州藩の練度の高い攻撃で仙台藩はあっけなく突破され、長州藩はこの高台を制圧した。そしてそれから東の駒ヶ嶺本陣を側面から直接攻撃を開始した。 仙台藩は、駒ヶ嶺に増援部隊を送り、新政府軍に切り込みなどをかけて善戦したが、旧式な装備はいかんともしがたく苦戦に陥り、城下は戦禍で焼失、駒ヶ嶺城も攻撃により炎上、落城した。

仙台藩は死傷者を多数出して退却を始めた。新政府軍はこれを追撃し、夕刻には目標としていた新地へ到達した。正面が突破されたため、海岸沿い、駒ヶ嶺西部の仙台藩兵も退却をし、新政府軍は駒ヶ嶺に兵を集結させた。

駒ヶ嶺を失った仙台藩は、駒ヶ嶺北の坂元に集結、16日駒ヶ嶺城奪還のため出撃した。旧幕軍の陸軍隊も加わり、3000名となった仙台藩の戦力を3隊に分け、駒ヶ嶺、曹善堂、今泉を同時に攻めて新政府軍を釘付けにし、旗巻峠の仙台藩兵を新政府軍拠点の相馬中村城へ攻め込ませることを意図していた。

駒ヶ嶺を守っていた久留米藩は、仙台藩の襲撃を受けて苦境に陥った。殺到した仙台藩の2部隊は、駒ヶ嶺の番所を抜き、外郭を制圧、火を放ち、久留米藩兵の一部は潰走を始めた。しかし、折りしもの雨はこの頃には大雨となり、仙台藩の火縄銃、大砲を中心とした火力は激減した。雨の影響を受けない後装銃を用いた新政府軍はかろうじて陣地を維持、長州藩が駒ヶ嶺に増援に入り、岩国藩は西側を回り仙台藩の側面を突いた。さらに鳥取藩が到着し、これを機に久留米藩、長州藩は攻勢に移り、仙台藩は堪えきれずに潰走した。

20日、仙台藩3部隊が再度駒ヶ嶺城の奪還の為に前進を開始した。海岸沿いを進んだ部隊は、今泉の新政府軍へ向けて攻撃を開始、新政府軍の津藩は地の不利もあり防戦一方となった。しかし、大洲藩、長州藩が援軍を回し、仙台藩兵は今泉の攻略を諦め退却を始めた。新政府軍は後退する仙台藩兵を追撃し、また駒ヶ嶺からの増援部隊が仙台藩兵の退路を遮断したために、仙台藩兵は逃げ場を失い壊滅的な打撃を受けた。

駒ヶ嶺へと向かった仙台藩今井隊と旧幕府の陸軍隊は駒ヶ嶺の北方に展開した。旧幕府陸軍隊は、新政府軍の前哨陣地を一蹴し、仙台藩の部隊とともに駒ヶ嶺本陣へ向けて攻撃を開始した。しかしこの駒ヶ嶺本陣は、もっとも精強な長州藩が守っており、その防御を崩せないでいる間に、増援として岩国藩が加わわり、旧幕府陸軍隊と仙台藩今井隊のみでは攻略が不可能となっていた。しかし海岸線を進む部隊は壊滅し、西部の部隊も防戦一方となっており、増援は見込めず、両隊は駒ヶ嶺の攻略を断念して退却した。

この一連の戦いで、旗巻峠方面軍が派遣した部隊は2小隊のみだった。旗巻峠からアームストロング砲を砲撃しつつ、曹善堂方面に進出させたが、歩兵攻撃と連動するなどの効果的な運用は行われなかった。派遣された2小隊は、鳥取藩兵を後退させるなど奮戦したが、弾薬も尽き旗巻峠に引き返した。


新政府軍は、浜通り、中通りの同盟軍諸藩が降伏したことにより、白河口からの軍のほとんどが会津へと向かい、仙台藩に対するのは、浜通りを北上し相馬中村藩を降伏させた平潟口からの四条軍となった。しかし四条軍は、仙台領の駒ヶ嶺を制圧したとはいえ、広大な仙台藩領を抑えるには兵は少なすぎ、後方から続々と来援する部隊を待つことにした。そのため、仙台藩兵が守る旗巻峠の戦いが起こる9月10日まで、双方大規模な軍事行動は起こしていない。

26日、仙台藩と並ぶ、列藩同盟盟主的存在の米沢藩から使者があり、米沢藩は降伏に動いており、仙台藩にも恭順降伏を勧めた。これにより仙台藩の恭順降伏派は勢いづいた。

しかし同日、仙台湾に榎本武揚の艦隊が入港したことで、主戦派も勢いづいた。榎本艦隊の来援は、仙台藩にとって待望の戦力だったが、期待に反し、仙台湾東名浜に入った榎本艦隊は台風によりひどく損傷しており、品川出航時は開陽をはじめとする4隻の軍艦と4隻の輸送艦に2,000名の兵士が乗り込んでいたが、途中、台風により1隻が沈没し、もう1隻は新政府に拿捕されていた。旗艦開陽も舵が壊れ、破損が著しくようやく転覆せずに到着した有様だった。また、この先の新政府軍との戦いで、海軍を活用できることはなかった。

しかしそれでも、この時期、 ライフル銃1,500挺、ミエニー銃1,375挺の調達に成功し兵装も整いつつあり、仙台藩が温存していた洋式銃隊の額兵隊の準備も ようやく整いつつあり、榎本らを交えて軍議が開かれた。しかし軍議は、主戦派と恭順降伏派はどちらも譲らず物別れにおわった。結局仙台藩は、包囲された会津を救うことも、自ら降伏することもできないまま、9月10日の旗巻峠の戦いを迎えることになる。

一方、新政府軍には続々と援軍が到着しており、更に多数の増援が予定されていた。四条総督らはこれで十分と判断し、仙台藩兵1200がこもる旗巻峠へ兵を送ることを決定した。旗巻峠は、相馬中村城を眼下に望むことが出来るところとして、仙台藩の重要な戦略拠点であった。浜街道の駒ヶ峰城が落城してからは 16小隊を置き、仙台藩最後の拠点として砲台場を築くなど北進する新政府軍を阻止する態勢にあった。

10日、新政府軍の長州藩2中隊は、隊を二手に分けて攻め上ったが、北東陣地をめざした長州隊は、途中仙台藩の哨戒部隊と戦闘になり、居場所を察知され高地からの射撃を集中された。また峠北口陣地を目指していた別動隊の長州隊と相馬中村隊は、山頂からの仙台藩の激しい銃撃に会い進むことはできなかった。

仙台藩兵は、北と東方向で優位に戦いを進めていたが、新政府軍の鳥取隊、広島隊、相馬中村隊などが南に回り、羽黒山の山頂から 旗巻峠へ2km稜線を進み、仙台藩兵の抵抗もなく南側の山頂陣地を奪った。仙台藩は突然山頂を埋めた新政府軍に驚き、奪還を試みたが、新政府軍の素早い寄せはその隙を与えなかった。仙台藩兵が混乱しているすきをつき、新政府軍は一斉に旗巻峠陣地になだれ込み、午前11時ころ、仙台藩兵は総崩れとなった。

翌日、仙台藩兵は態勢を立て直し戦おうとしたが、仙台から降伏の知らせが入り、協定が成立し戦いは終わった。 各藩はそれぞれ兵を引き上げ、仙台藩にとってはこの戦いが戊辰戦争中の最後の戦いになった。

仙台藩は降伏後、抗戦派の家老は総退陣し、恭順降伏派と入れ替えた。仙台藩の降伏を知った榎本、土方らは意見を翻すように説得したが、降伏派の仙台藩首脳はこれを無視。榎本らは仙台藩に見切りをつけ、かねてから希望する蝦夷共和国建国へ向けて仙台藩を去った。