三沢基地や航空博物館、淋代海岸などを訪れた後、小川原湖の伝説地を訪れた。小川原湖は、入り江の一部が海面低下と、湾口に流入する砂丘の発達によりせき止められて形成された気水湖らしい。

湖や沼には伝説はつきものだ。特に東北地方には、八郎潟や十和田湖、田沢湖にまたがる壮大な三湖伝説がある。三湖伝説は、十和田火山噴火の災害をモチーフにしたものに、仏教説話的な要素が加わったものだろう。恐らくは旅の僧の布教の中で、様々にアレンジされたものが、東北地方に広く存在すると思われる。しかし、この小川原湖伝説は、それらとは少し異なるように思える。

父親や恋人を探し歩いた高貴な女性が、旅の果てに入水する、という内容は、湖や沼の伝説としては一つのパターンではあるが、この地の伝説に出てくる「橘道忠」なる公卿が謎なのである。私は、歴史伝説には、何らかの史実が背景にあるものと考えているが、この伝説の時代背景が見えないのである。

犬落瀬の熊野神社の橘公塚の伝説では、橘中納言道忠の白雉5年(654)頃の伝説とあるが、当時は、大化の改新後で、孝徳天皇と中大兄皇子が対立していた時期で、それが理由とも考えたが、多賀城以北は、いまだ蝦夷の勢力が強い時期で、特に津軽の地は蝦夷の支配する地だったといって良い。

橘氏は、公卿の名族であるが、浮沈が激しく、平安時代、嵯峨天皇に后を立てた後は藤原氏に押されて日の目を見ることはなかったようだ。伝説にある、「讒言により陸奥国に流された」「世の無常を感じこの地に至った」を考えれば、時代は平安時代の後半と考えられるが、いずれにしても「道忠」なる人物は探せない。

しかし、藤原道長の引きで陸奥国司になった「橘道貞」なる人物がいる。道貞は和泉式部との間に子をもうけていたが、式部はこの陸奥赴任中に道貞のもとを去ったようだ。こう考えると「世の無常を感じ」が現実味を帯びてくる。しかしそれでも、当時のこの地は不毛な寒冷地で、都はもちろん、多賀城からもあまりにも離れすぎている。果たしてこの地の伝説の背景には何があるのか、興味深いことである。

この地に伝えられる伝説によれば、昔、京の都に橘中納言道忠という貴人がいた。道忠には、玉代姫と勝世姫という二人の姫がおり、幸福に暮らしていた。

しかし、讒言するものがあり、また屋敷が賊に襲われ、橘家を支えていた重臣が殺された。道忠は、世の無情をはかなみ、俗世に別れを告げ、ひっそりと旅に出た。

二人の姫は、父の行方を探すべく旅に出て、諸国を巡り探し歩いたが行方は知れず、二人の姫は尾張の熱田大社に37日間籠り願をかけた。すると満願の日、白髪の翁が夢まくらに立ち、「汝らの父は、はるか北の国の清地の流れに住んでいる」とお告げがあった。二人の姫は、その翁のお告げ通り、姉と妹はそれぞれに供をつれて奥羽をめざして出発した。

姉の玉代姫は、武蔵から古川、盛岡、五戸へと旅をし、とうとうこの地へたどり着いた。その夜、旅の疲れでうとうとしていた玉代姫は、父の呼ぶ声を聞いた。その声にひかれて行くと大沼へとたどり着いた。声はその水底から聞こえて来る。姫は我を忘れて沼に入っていった。

玉代姫はこの沼の主になり、その時からこの沼を「姉沼、姉戸沼」というようになったと云う。

妹の勝世姫は、心細い旅を続け、越後の国の村上まで来たとき、父が沼崎というところで没し、沼の主となったと云ううわさを耳にし旅を急いだ。しかし、ようやく漆玉というところへたどりついたときには疲れはてて動けなくなってしまった。

見れば広々とした沼が広がっていた。勝世姫は、父道忠はこの沼の主になっているのかもしれないと考え、自分もこの沼の主になろうと決意し、沼に静かに入っていった。

ところがこの沼にはワニ鮫が住んでおり、姫をめがけて飛びかかってきた。すると姫の姿は大蛇とかわり、さらに父道忠がこつぜんと現れ、ワニ鮫に縄をかけ、漆玉のうしろにあった小さな沼に投げ入れた。それ以来、勝世姫が沼の主となり、この沼を「妹沼」と呼ぶようになった。それが小川原湖である。

その後、二人の姫は父の居る沼崎へ行き、三尊仏になったと伝えられる。

小川原湖の伝説を巡りながら、湖の西岸から東岸に至る頃には夕暮れになっていた。小川原湖の夕日を撮らないわけにはいかない。調べてみると、小川原湖の北端に、「マテ小屋」という漁のための小屋が湖中にあるらしい。途中、小川原湖の伝説の謎を考えながら「マテ小屋」に向かい、小川原湖に沈む夕日を楽しみ、この日お世話になる道の駅に向かった。