2013/04/25

犬落瀬熊野神社

長慶天皇の伝説を訪ね、天気も良く、久しぶりの歴史散策は快調だ。犬落瀬から三沢方面に少し走ると、舘野公園がありその南側に熊野神社がある。その境内に「橘公塚」があるはずで、寄ってみることにした。

この地の塚は、白雉5年(654)の頃、橘中納言道忠という公家のもので、父道忠を訪ね京の都から小川原湖まできて、はかなくなった玉世姫と勝世姫の伝説に関わるもののようだ。

この伝説には、恐らく何らかの史実が関わっているとは思うのだが、小川原湖周辺の伝説を、もう少し精査してからまとめてみたい。

旧三沢海軍航空隊

六戸町からおいらせ町を抜けて、三沢に向った。三沢は国道4号線から外れ、また八戸へのルートからもそれており、交通の要衝とは言いがたい地で、意識しなければ立ち寄ることのない地だ。寒冷地で、米の生産にも適していなかったのだろう、そのせいもあり歴史散策で訪れる箇所は少なく、小川原湖伝説以外には古いものは少ない。それでも三沢には、かつては旧海軍航空隊が置かれ、何枚か写真を撮りたいと思い三沢基地を訪れた。

途中、三沢に近づくにつれて、ジェット機の爆音が聞こえるようになっていた。現在の三沢基地は、米軍と自衛隊の共用基地になっており、北の空の防衛の要になっているはずだ。あの北朝鮮が「火の海」にしてやると言っている地の一つだ。

実は、この三沢は、私の亡くなった祖父が終戦を迎えた地だった。この地には、当時さまざまな特攻隊が置かれ、多くの若者達が集められていたという。祖父はその教官としてこの地にあったらしいが、この地の特攻隊は出撃する前に敗戦を迎えた。祖父の部隊の若者たちは憤激を抑えきれず、武装したまま上京をはかり、途中強制的に武装解除させられたと言う。祖父は、この当時について多くを語らなかったが、今思えばもっと多くのことを聞いておけば良かったと思っている。

町中を走ると、そのど真ん中に基地のゲートがあった。メインストリートがそのままゲートに突き当たっている。この三沢の町は、まさに三沢基地とともにあるのだろう。取材許可を得ているわけでもないので、中にはもちろん入れない。ゲートの写真を撮り、基地が見渡せるところを探して東に進んだ。

少し走ると、三沢空港の入り口がある。三沢は、民間機の空港にもなっているのだ。駐車場に車を入れて、屋上の送迎デッキに上がった。ちょうど民間機が離陸の為に滑走路に向うところだった。しかしその合間にも頻繁に戦闘機や軍用ヘリが飛び立っていく。北朝鮮によるミサイル威嚇の中で、送迎デッキからの眺めはまさに最前線だ。

憲法にある、「平和を愛する諸国民の公正と信義 に信頼し」の前提が夢物語である中で、場合によっては冷たい視線を浴びながらも基地から戦闘機が飛び立っていく。この基地が、一面の牧草地になることを願う反面、「公正と信義」を信頼できるとはとても思えない現実の中で、この基地のもたらす抑止力は頼もしいとも思える。

幸いなことに、基地周辺には、沖縄の基地周辺に見られるとげとげしい「基地反対」のような雰囲気は見られなかった。若い頃の祖父も、敗戦間際に死を覚悟している中で、この地で比較的穏やかな日々を送れたのかもしれないと思った。

航空科学館

三沢基地に隣接するところに、航空科学館があった。恐らく、三沢では唯一といってもいい観光施設だろう。早速、入ってみた。建物入り口には、太平洋無着陸横断飛行を世界で初めて成功させた、二人のアメリカ青年の像が立っている。私は、この地から太平洋横断飛行に飛び立ったことは知らず、俄然興味が湧き館内に入った。

館内には、YS11をはじめとした数機種が展示されていたが、やはり展示のメインは、太平洋横断飛行に成功した、ミスビードル号だった。恐らくレプリカだろうが、美しい機体は写真で見る往時の姿そのままだ。この地の方々は、二人のアメリカ青年の壮挙を成功させるべく、様々な協力を惜しまなかったようだ。この無着陸太平洋横断の成功は、この地の方々の誇りでもあるのだろう。

科学館を出ると、外にはこの基地の歴代の戦闘機や練習機などが展示されていた。その殆どは、実戦に参加することもなく、この地で余生を送っているのだろう。すぐ隣の滑走路から飛び立って行く戦闘機を見上げ、日本の空を守っているそれらの戦闘機とパイロットに感謝した。

科学館を出て、当然のことのように、解説板で得た知識をもとに、太平洋横断飛行の出発地の淋代海岸に向かった。