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伊達綱宗が隠居した後は、大叔父の伊達兵部宗勝(一関藩主、政宗十男)、田村右京宗良(岩沼藩主、忠宗三男)の両名を後見とし、幼い嫡男の伊達亀千代(綱村)が四代藩主となった。

兵部宗勝は、嫡子・宗興の正室に酒井忠清の養女を迎えるなど、幕府との繋がりも強く、田村右京宗良とともに綱宗の後見の立場にあったが、その綱宗は、不作法の儀により、21歳で隠居させられたが、後見の兵部宗勝がとがめられることはなく、同年、一関に3万石の分知を受けて大名となり、さらに綱宗の跡を、僅か2歳の長男・綱村が継ぐと、宗勝はその後見人となって仙台藩を専横するようになった。

兵部宗勝は、実質的に藩政を牛耳り、意に沿わぬ奉行の奥山大学を失脚させ、監察権を持つ目付の権力を強化して寵愛し、奉行に上回る権力を与えて自身の集権化を行った。原田甲斐宗輔も、田村宗良の推挙で奉行となり奉行の首席となり、伊達宗勝は周りを固め専横を極めるようになった。

この当時、仙台藩は上級家臣にはそれぞれに領地をあてがわれる地方知行制で、家臣間での領地争いが頻繁に起こっており、兵部宗勝はこの領地争いで、自分に近いものに対しては有利な裁定を行うなどして、勢力を拡大していた。しかしそれは逆に反感も買い、そのため、兵部宗勝らによって切腹・追放などの処分を受けた者は100人以上に上った。

仙台藩の奉行の一人に、伊東重義がいた。伊東氏は、工藤祐経の流れで、鎌倉幕府から奥州安積45郡(現在の福島県郡山市)を賜わり、代々奥州安積を領していたが、永享11年(1439)に伊達持宗の麾下に属した。重義の祖父の伊東肥前重信は、戦国時代に伊達政宗に仕え、天正16年(1588)の郡山合戦において政宗の身代わりとなって戦死している武功ある家柄であった。

重義は、寛文3年(1663)、原田甲斐とともに奉行となったが、兵部宗勝の専横を憎んでおり、就任に先だって、藩主亀千代(綱村)の後見役である兵部宗勝と田村宗良に誓書をかかせたが、まもなく病にたおれ、33歳の若さで、仙台藩の行く末を案じながら、後事を分家の伊東七十郎重孝に託し病没した。

重孝は、文武両道にすぐれ、生活態度は身辺を飾らず、内に烈々たる気節をたっとぶ直情実践の士であったという。藩主亀千代の後見役の兵部宗勝の専横を幕府にうったえるが、逆に宗勝に命をねらわれることになった。そのような中で、幕府の仙台目付饗応での席次をめぐり争いをきっかけに、七十郎重孝は本家の重門とはかり、兵部宗勝を暗殺しようとした。だがこの計画は、直前に家来の裏切りにより露見し七十郎重孝は捕縛された。

重孝は、寛文8年(1668)4月、死罪を申し渡され、米ヶ袋の刑場で処刑された。重孝は処刑の際に、「人が斬られれば首は前に落ちるというが、われは天を仰がん。仰がばわれに神霊ありと知れ。三年のうちに癘鬼となって必ず宗勝を亡すべし」と言った。狼狽した役人の太刀は重孝の首を半分しか斬れず、重孝は斬られた首を廻し、狼狽する役人を叱咤し、2度目の太刀で重孝の首は斬り落とされた。重孝の体は果たして天を仰いだという。後に、この役人により、処刑地の近くに地蔵が祀られ、今も「縛り地蔵」として残っている。

兵部宗勝の、伊東一族に対する復讐は凄まじく、重門は幽閉(のち自害)、七十郎の父と兄は切腹、一族は永久追放、伊東家は断絶という凄惨な処分を課された。しかし重孝が処刑された3年後の寛文11年(1671)には寛文事件が起き、宗勝や原田宗輔たち兵部一派が処分され、重孝の忠烈は称えられ、伊東一族は赦免され、延宝3年(1675)には伊東家は旧禄に復し再興された。

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