綱宗の隠居により、嫡男の亀千代(伊達綱村)は、僅か2歳で家督を相続し、叔父の一関藩主伊達宗勝や岩沼藩主田村宗良などが後見人となった。しかし家中では、綱宗の時代から続く家臣の対立や、宗勝の専横などが続き、伊達氏の家中は混乱が続いた。

そのような中での寛文6年(1666)には、未だ8歳の幼君綱村自身が何者かの手によって毒殺されかける事件が起きた。『伽羅先代萩』では、この下りは大きな見せ場であり、次のように演じられている。

脇谷帯刀(伊達安芸)の妹の政岡の局は、幼君鶴喜代丸(亀千代)の乳母となり、実子の千松とともに主君を育てていた。食事に毒を盛られることを恐れた政岡は、主君の前で手ずから調理して鶴喜代丸に食べさせていた。そこに訪れた、二木弾正(原田甲斐)の妹の八汐が、毒入りの菓子を贈り物として差し出した。毒見役を言い使っていた千松は、その菓子の一つを食べ苦しみだし、残りを蹴飛ばした。八汐は千松の無礼をとがめるとして懐中の刀で殺し、毒殺の証拠をなくした。政岡は心中の苦しみを押し隠し、幼い主君を守るため、我が子を助けることもできず、幼い主君のそばについて守り通した。

幼君の毒殺未遂事件は寛文6年(1666)と寛文8年(1668)の2回あったとされる。1回目は、毒見役が即死し、伊達宗勝の命により、医師河野道円と膳番、女中が殺された。2回目は、原田甲斐宗輔の世話で亀千代の小姓になっていた塩沢丹三郎が、鱸(すずき)に毒を盛り、自ら食し死亡した。

この「政岡」のモデルとして、生母の三沢初子と家臣の白河義実夫人が挙げられている。初子は夫の伊達綱宗の強制的な隠居の不穏な状況を知らないはずはなかっただろう。そのような中で、後継となった子の亀千代に、不測の事態が起きるかもしれないという危機感は強く抱いたはずだ。そのような中で、信頼できるこころきいた者を奥に迎えたはずだ。それが白河義実夫人かもしれない。

白河義実夫人は、葦名氏の流れの葦名重信の息女で、白河家に嫁いだ。白河義実は、白河氏滅亡後、伊達政宗に招かれ現在の一迫真坂を領した。

万治3年(1660)、伊達三代藩主綱宗が隠居させられ、当時2歳の亀千代(綱村)が伊達家を継ぐことになると夫人は奥に召しだされ、幼君の養育にあたった。

伊達氏の家中は混乱が続き、亀千代は毒殺されかけたこともあり、寛文11年(1671)に事件は決着し、藩主綱村が仙台城に帰るまで江戸上屋敷で奉公した。嫡男上野宗広は「御一門」に列せられ、また「永代常式諸役御免」の印書等の厚遇を受けた。

これらのことから、白河義実夫人が政岡のモデルかどうかは別として、亀千代を守り抜いたことは事実だろう。

三沢初子は、信濃源氏の後裔の三沢氏の出身。寛永17年(1640)、三沢清長の娘として生まれる。13歳のとき父母と死別し、叔母の紀伊に養われた。初子は、叔母の紀伊が、仙台藩二代藩主伊達忠宗の正室振姫の老女となり、初子は振姫の侍女となった。容姿端麗、天性聡明であったことから、忠宗は振姫と相談し、彼女を世嗣の伊達綱宗の側室とした。綱宗はその死まで正室を迎えず、初子は事実上の正室だった。

万治元年(1658)、伊達綱宗は父の忠宗の死去に伴い第3代仙台藩藩主になった。翌年の万治2年(1659)、初子は仙台藩伊達家の江戸屋敷にて第1子の亀千代(伊達綱村)を産む。だが、翌年、伊達綱宗は隠居させられ、その世嗣の亀千代はまだ2歳であったが、第四代仙台藩主となった。

我が子の無事を案ずる初子は、釈迦像を刻んだ伽羅の香木を、まげの中に納め、亀千代の除災招福を祈願したという。また毒殺から身を守るため、良源院(増上寺の子院)の井戸から水を汲み、調理したと伝えられている。

寛文事件が収束したとき、初子はまげの中の仏を綱村に与え、「これはあなたの守り本尊だから、城外に安置しなさい」と遺言したという。貞享3年(1686)、享年47歳で没した。のちに綱村は、榴ヶ岡に釈迦堂を建立し守り本尊を納め、母の遺徳を広く分け与えようと、この岡一帯にしだれ桜1万本を植え、四民遊楽の地としたという。